安田 茜『結晶質』(書肆侃侃房 2023年)
人体模型。学校の理科室の隅に置いてあった。全身の骨格を写し取ったもの、筋肉の付け方を再現したもの、内臓を色分けしながら象ったもの……。怖いけれど見たい。そういう、興味と畏怖の綯い交ぜになったような気持ちで向き合った気がする。いや、しっかりとは向き合えなかった。身体とは不思議なもので、自分の身体なのに、どうなっているのかほとんどわからない。だから、それを模型として見せられても、詳細さや、有機的な仕組みの見事さに感心はするけれど、いまいち、自分のものとして受け入れられない。未知の深淵として何か怖いばかり。ゆえに、引けた腰のまま退散した。
この歌は「かなしいね」から始まっている。何がかなしいのか。
模型とは、まず何かがあり、それに似せてつくっているので、あくまで「従」のものである、ところが、ここではそれが逆転している。人体模型とおそろいの場所にある、人の臓器 つまり、模型が「主」で人間が「従」であるかのような書きぶりなのだ。
また、そうだとして、人体模型と同じところに臓器があるのは、安心すべきことではないか。人体模型は多くの人体を調べ上げ集約した、人間のベストな平均値を示す。たとえば、あるべきところに臓器がなければ、機能面での観察が必要になってくるだろうし。
けれど、見方を変えれば、それは特別な身体であるということで。
諾々と模型のままの平均値の身体でいること、そうでしかない自分であることは、「かなしいね」とつながってはこないだろうか。
そうして、無機的な模型と同じというところでは、身体が息づきのない、アンドロイドめいたものに近づいてきているイメージが浮かぶ。「おそろい」 模型と主体の身体が重なる。人間の身体の向こうに、人体模型の臓器が透ける。日々、喜び苦しむ人間だって、皮一枚剥げば人体模型。フラットな身体。いささかさびしい。
一方、精巧な人体模型は人体への深い理解に基づいたものだが、そこに至るまでには、たくさんの血が流されている。病のみならず戦争、処刑……そういうものの果てに人体模型はあって。体を暴くことの暗さ、そういうものも「かなしいね」に遠くつながっている気がする。
ただ、全体の印象は、「おそろい」という言い方や「かなしいね」の「ね」の呼びかけ・つぶやきの助詞の効果で、割合カジュアルである。だからこそ、いっそう、下句に至り、「かかえ」るという言葉や「秋」という季節の重みによって、そのかなしみが、よりシリアスなものに転回しつつ増幅されてくる感覚があるのだが。
臓器移植法施行から二十六年。細胞から臓器を生み出す技術もどんどん進み、3Dプリンターで臓器が作れそうな時代になってきた。
一方で、身体を持たない、バーチャルなコミュニケーションも加速してきていて。
人体、どうなっていくのだろう。
この歌は、時代のほの暗いところも照らす。