一年に十分の時を先に行く居間の時計にわれの従ふ

吉田直久『縄文の歌人』現代短歌社,2022年

程度は人によって異なるだろうけど、許容できる時計のズレ幅が存在するように思う。例えば十分とか、十五分とか、ある程度以上のズレが生まれるとそのズレを直さねばと思うのだけど、数分程度のズレであればさほど気にならずそのまま生活できてしまう。

一首の場合は、居間の時計が少しだけ進んでいる状況だ。「一年に十分の時を先に行く」とあるので、居間の時計は一年にだいたい十分くらい時間が早まるのだろうか。一年に十分。一ヶ月なら一分弱のちいさなズレ。基本的には時計が少し早まった状態のままで生活しているのだろう。一年に十分というのが妙に具体的で、この時計は長いこと居間にあって、十分のズレを主体は何度か感じたことがあるような手触りがある。だとすれば、時計のズレが十分を超えたあたりで、主体は時間のズレを直すのだろう。「一年に」の限定によって、その修正のタイミングは一年周期で訪れるのがわかる。

結句の「従ふ」という動詞の選択に納得感がある。居間にいる間は、その時計が指し示す数分先の時間の世界で主体は過ごす。その状況において、居間の時間は標準時間からズレていて、早まった時計が生み出す独自の秩序が居間には存在している。その秩序の中で主体は過ごす。ただ、テレビ画面に表示される時刻だとか、携帯画面に表示される時刻などによって、世界と居間のズレは感じられるだろうから、居間の時間がズレていることを主体はたびたび認識していることだろう。すぐさま時間のズレを直すことも、時計を買い替えることもできるが、主体はそうはせずに、その時計が生み出す秩序に従って生活している。

ただ、主体は積極的に居間の時計に従っているわけではないような気がする。「われの従ふ」という結句からは、居間の時計の生み出す時間秩序に従うぞ!という強い意志は感じられなくて、あくまでも時計のズレを許容しているように感じられる。だけれども、ズレを許容してしまえば、その時計が生み出す秩序の中で過ごすことになり、結果的に「従ふ」ことになるのだ。

一分のズレの時にはほとんど何も感じないだろう。これが三分くらいになれば少し違和感を感じる瞬間が出てきて、五分くらいになれば早まったなと感じる場面が増えてくる。そして、時間のズレが十分くらいになった時点で、もう従うことができなくなって時間を直す。その間に一年の時間が経過する。

一首からは長いスパンでの主体の動きが想像されて、妙におかしい。

秋の夜のBill Evansビル・エヴァンスの繊細は無機質の吾が居間に染み入る/吉田直久『縄文の歌人』

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