休日のわたしがガラス戸に映りふつうの女の人のようなり

田宮 智美『にず』(現代短歌社  2020年)

 

 休日。街に出たのだろうか。「ガラス戸」は、家のガラス戸という可能性もなくはないが、前後の歌から、外出先のそれであろうと思われる。他の人も行き交っている街中のガラス戸である。

 「休日」の反対は、「平日」というよりは、「勤務日」ということになるだろう。であれば、職場で着ている服とは違うタイプの服を、おそらく着ている。気持ちもゆったりとしている。そんな時にガラスに映る自分は、「ふつうの女の人のよう」だった。もちろん、ガラスなので、鏡面の生々しい姿ではなく、かなりソフトなフォーカスで暗めに見えてはいる。

 それにしても、「ふつうの女の人のようなり」という感想とは。何か……痛ましい。いつもは「ふつうの女の人のよう」ではない。そう、心底感じているということだ。

 

 「ふつう」とは何だろう。役者が演じるのが一番難しいのは、「ふつう」の人だそうだ。癖がある方が、何倍も演じやすいと。そう、「ふつう」とは、どこにでもいそうな、周囲に溶け込んでいる、これということのないものを指すのだ。だから、意識するほどに、その抑えた自然さを出すのが難しいのだろう。

 とすれば「ふつう」でないとは、周囲とは異質の、溶け込めていない、不自然な性質を表している。そんなことはないと思う。だが、少なくとも本人にはそう感じられている。それは、勤務日のセルフ・イメージなのだろうか。

 いや、「ふつうの人」ではなく、「ふつうの女の人」であった。この「女の人」というところがポイントだったか。

 「ふつうの女の人」というのが具体的に何を指しているのかわからないが、少し前の時代のみならず、今でも、女の人の生き方のスタンダードはこういうものだという根強い価値観はあって、案外、周囲ではなく、女性自身がそれに囚われていることもある。女の人としての「ふつう」とは何なのかを考え、そこに当てはまらない時、苦しい気持ちになった人もいるだろう。

 いつからか育ってきた「ふつうの女の人」ではないという自己像。それは、「ふつう」という枠を設定して、そこからはみ出した時の苦しさが作ってきたものだったか。

 

 だが、この時、ふと「わたし」は見掛けたのだ、ふつうの女の人のような自分を。それは、いつも自分が自分を見ている目から解き放たれた瞬間であったと思う。街の中で他の人を見るように自分を眺めた時、その客観性の中の自分はふつうの女の人だった。

 

 それは戸惑うことでありながらも、いくらかの安堵をもたらしたろう。もちろん、「なり」という断定ではなく、「ようなり」なので、あくまでも、その実は……という部分は含まれたままなのだが。

 「ふつう」でなくてもかまわないとは思う……。

 でも今は、「わたし」が休日を楽しめたらいい。それだけでいい。

 

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