人類を森口博子を知る者と知らない者に分けて秋雨

竹中優子『輪をつくる』角川文化振興財団,2021年

壮大な二元論に組み込まれた固有名詞が、まず面白い。
人類を二分する際に、「森口博子を知る者と知らない者」という二分法は間違いなく粗い。森口博子を知っているのは基本的には日本人の一部に過ぎないだろう(ガンダムの主題歌の関係でいくらかの国際的な知名度はあるかも知れないが…)。日本国民のうち森口博子を知っている人の割合は想像がつかないのだけれど、約半数だとしても五千万人程度であり、残りの人類と張り合うには心許ない。

ただ、なんとなく、一首の起点のようなものはわかる気がする。
例えば、職場などの集団にいて、森口博子を知っている人と知らない人に二分されることはあり得る。その線引きは、世代的なものになるかも知れないし、趣味的な差異の表出になるかもしれないし、芸能人の解像度の違いがあらわれたものになるかも知れないが、いずれにせよ、そういう状況は存在し得るように思う。どんな状況かはわからないが、森口博子の話題が出て、森口博子を知らない人がいた。「知っている」の解像度をどれくらいに設定するかにもよるだろうが、仮に名前すら知らない人がいてもおかしくはない。

主体はどちら側なのだろうか。「人類」という語が用いられている以上、主体もどちらかの陣営には所属しているのだろう。どちらかは明示されてはいないが、あまりに大仰でやけっぱちな感じのする構文と、結句「秋雨」のもたらす寂寥感から、どこか少数派に属しているような印象を受ける。

自分以外がみんな森口博子を知っていて疎外感を感じた可能性もあるし、森口博子の歌唱力や往年のバラエティ番組での活躍を熱弁しても誰もついてこれない可能性もあろう。ふたりで喋っているのかも知れないし、何人かでわいわいしているのかも知れないし、あるいはマクドナルドの隣のテーブルがそんな話題で盛り上がっていてそれが聞こえてきているのかも知れない。

結句の秋雨はやや唐突な感じもするが、「森口」の字面からひんやりと樹々を濡らす雨がかすかに過ぎる。むしろ、四句目までの大げささによって、結句の秋雨には妙に現実感を感じる。
また、読みようによっては、秋雨は分断された人類を包み込んでいるようにも、秋雨が人類を分断しているようにも感じられる。

森口博子を知っているか知らないかは平和な話題だ。ただ、「人類」を二分すると言われると、小さく不穏な感じがする。二分された者は時に争う。もちろんそんなことは起こらないのだけど、森口博子を知っているか知らないかによる武力衝突が起きてもおかしくはないような気がしてくる。

森口博子を知っているか知らないかの係争など、おそらくすぐに無かったことになるだろう。秋雨が止み、冬が訪れて、雪が降る頃にはそんなことがあったことも忘れている。

ただ、どんなことであろうとも人間を二分し得るし、はたからみれば些末なことでも、当事者にとってはのっぴきならないこともあるだろう。

窓外に降る秋雨の音を聞きながら、そんなことを思う。

時間にも身体があれば晩秋はただ一本のそのふくらはぎ/竹中優子『輪をつくる』

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