上田三四二『照徑』(短歌研究社 1985年)
「むらさきしきぶ」は植物。秋、小枝に小さい紫色の実がたくさんつく。この名前は、『源氏物語』の作者、紫式部から取られたものだろう。紫色だからむらさきしきぶ。わかりやすすぎる命名だが、この植物の佇まいには、かすかな華やぎと、奥深さが感じられ、平安時代の物語作者にとても似つかわしい。わかりやすすぎる、もとい、情趣に富む優れたネーミングである。
実になりかけの始めは白っぽい。それが、秋の深まりとともに段々色付き、濃くなってくる。それは人生の深まりとリンクする。歌の真ん中にある「て」が、双方を強すぎず淡すぎず、絶妙な加減で結びつけている。
そして歌は下句へと続く。「老いゆくは修羅をこえてしづけし」 すごい謂だ。「修羅」はここでは、これまでの人生にあったつらく厳しい様々な場面を指していよう。その渦中にいたときは、苦しくて悲しくて心が乱れたことだろうが、今は、人生を進んできた今は、もう遠いものになっている。「こえて」きたのだ。そして静かなのだ。
この境地。作者がこの歌を作った時、作者は老境に入ろうとしていた。大病を経ながら。これは自身の心境が色濃く映った歌といえよう、ここまで来たのだという。
秋の庭。とても静かだ。むらさきしきぶの枝が伸びている。紫の実。深い色。
これは希望の歌でもあると思う。「老い」というものは寂しいばかりではなく、今まで知り得なかった境地へと到達する新しい発見の時でもあるのだと。まだまだ熟していける。
また、作者は『短歌一生』という本を著している。その中に、
歌人に停年はない。芸術の分野には停年はなく、絵画、書道などとともに短歌俳句はことに老熟をゆるす芸術分野であろう。一言にしていえば、「短歌一生」なのである。
短歌が青春の文学であることを私は首肯するが、よりいっそう、老年の文学であることを確信する。
という言葉がある。
歌を詠む、ということにおいても、熟していけるのだ。
生まれて、老いて、詠って。どこかにかすかに、平安以来の千年の時間軸もありながら。
深まる秋の感慨である。