牛馬うしうまとともにありたる生活より百年たり 人こころ病む

『サーベルと燕』小池光

 敗戦の年に生まれた私でも、牛馬が暮らしの中にいた記憶はない。つまり農耕馬ということだが、これには地域差があるのかもしれない。我が家には馬小屋が残っていたが、牛馬はもういなかった。近所の田んぼに牛が働いていたことがあったかもしれないが、それも戦後数年間のことだろう。では日本の農村から牛馬が全くいなくなったのはいつ頃なのだろう。この歌ではそれから「百年」とある。そしてそれ以後「人こころ病む」と言う。この言葉は、おそらく、近代化と人の心の問題としてあるのだろう。

牛馬から切り離された現在、代わりに人は犬や猫を飼っている。番犬や猟犬としてでなく、また鼠を捕らせるための猫というのでもなく、まったくのペットとしてである。そして、食べさせ、排泄させ、体を洗い、服を着せ、散歩させ、愛玩する。現代人の心の病がそこに潜んでいる、と言うのだろうか。そんなことを思っていると、歌集の中のこんな一首に目が止まる。「高層マンションがふるさとである青年がつくりし歌をいかに読むべき」。さて「ふるさと」とは何なのであろう。

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