市役所の回転扉を出ていくとどてら姿の米兵がいた

五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2013)

たしかに「兵士」がよく出てくる歌集である。

白い蛾がたくさん窓にきてとまる 誕生会に呼ばれた兵士
夕方は出口がとてもよく見えて自分のからだが嫌いな兵士
空港の管制塔のなつかしいひかりの下でまどろむ兵士
ヒロインを言葉のなかに探そうとラジオを修理している兵士

たとえば、こんな調子で末尾に「兵士」と体言止めにしている歌だけでも六首、連作に関係なく歌集全編に散らされている。短歌というのはどこかスナップ写真に似ているものだが、それをあつめた歌集というアルバムを繰っていると、この写真にも、あっ、この写真にも、とたびたび「兵士」の写りこんでいることに気づく。撮られた場所も、場面もさまざまなのに、「兵士」だけはなぜか写真の同じ位置に写っていることが多い。ひとたびそのことに気づいてしまうと、読者は不気味な、というかちょっとした恐怖を味わいながらこの歌集を読み通すはめになる。

『緑の祠』には横須賀という地名もなんどか出てくるし、歌集の多くの部分が米軍基地のある横須賀を舞台にしていると仮定すれば、「米兵」や「兵士」がところどころに顔を出すのは、まあ当然である。と、無理やり自分を納得させようともした。でも、やはりおかしい。縦に長い短歌という形式の、いちばん底に沈んでいるたった二文字の「兵士」は、私にはなんだか小人のようにも見える。これは、横須賀にいる現実の米兵ではなく、なにか異形の〈兵士〉なのではないのか。

そんなことをぐるぐると考え読み進むと、終盤に掲出の一首があらわれる。それまでの兵士の歌は、多くの場合、兵士の行動や思考を三人称的な視点で詠んでいたのに、ここには「市役所の回転扉を出ていくと」と、行動が主観的に記されている。この主体の動きは、兵士のことを考えながら歌集を読み進め、今、終わりに差し掛かろうとしている読者の在り方と相似形をなす。それまで赤の他人として写真の中に見ていた「兵士」が、どてらを着た「米兵」という具体性をはらむ存在になって、そこに待っている。「いかがですか」とでも言いたげな、「米兵」のにやついた表情が見えるような気がする。読者、主体、写真の中の兵士、交わらないはずの複数の地平が、一気にねじれて接合する瞬間だ。

さて『緑の祠』には、なにもそんな不気味な歌ばかりが納められているわけではない。

夏の盛りに遊びに来てよ、今日植えたゴーヤが生ってたらチャンプルー
青春の終わりを告げられる人の胸の明かりをぼくは集める
書き終わらないレポートはそれだけで空についての考察である
海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている

ここに引いたのは、みなまるでみずみずしい青春歌だ。ことに「海に来れば」などは人気のある一首だが、『緑の祠』という歌集一冊を通して読めば、こんな開放的な人生の裏側に蜘蛛のように張り付いている〈兵士〉が、みえるひとにはみえてしまうわけである。

*引用は現代短歌クラシックス版(書肆侃侃房、2023 )によった。

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