日のほてり残りしドアを制服のわが肩は越ゆわれに先だち

小野茂樹『羊雲離散』(白玉書房、1968)

両肩の間に載っている自分の頭だけを「われ」と把握し、まるで「制服のわが肩」が他者であるかのようなうたいぶりである。私も、この歌を頭に浮かべながら幾度かドアを開け、隣の部屋に行ってみたりしたのだけれど、肩と頭が同時に敷居を越えるということはたしかになくて、人というのは、まだ完全にはあけきらないドアの隙間へ、肩を斜めに滑り込ませるように、新しい部屋へと進んでいくのだった。小野茂樹は、こういう、理屈がちな描写でおさえこむように歌に仕立て上げていく豪快さが、とても似合う歌人であると思う。

重要なのはおそらく、その肩が「制服」をまとっているということなのだろう。〈われ〉と〈制服のわが肩〉の差は、主体自身の丸腰の精神である〈われ〉と、学生という属性をまとった〈われ〉の差であるといえる。今、歌の主体は、丸腰の〈われ〉の方に立っていて、制服の〈われ〉の性急な動きを、どこか突き放して見ているようだ。

歌集『羊雲離散』は、「暗算」「封蠟」「胸壁」「漏刻」という四つの章からなるが、第一・二章にあたる「暗算」「封蠟」は、有名な〈きみ〉との関係を中心に展開する。ここに取り上げたのは第三章「胸壁」の二首目であって、この章で作者の意識は〈きみ〉をいっとき離れ、学生生活が題材となる。作者はそのなかで、どうやら学生運動を詠んでいる。その奥歯にものがはさまったようなあいまいなうたいようは、「制服のわが肩」への突き放したまなざしとかかわっているだろう。

歌集の中で、扉とか、ドアを象徴的に詠んだ歌がいくつかある。〈きみ〉との関係をめぐる歌から引く。

せめて同じき調べに心つながむとわれら危ふく木の扉押す
くぐり戸は夜の封蠟をひらくごとし先立ちてきみの入りゆくとき
いちにんのため閉さずおくドアの内ことごとく灯しわれは待てるを

二首目は、標題歌と同じように自分に「先立ち」扉を越えていく者を見つめているのだが、うってかわったこの華やぎはどうしたことだろう。三首目は〈われ〉と〈きみ〉の間にあるドアだが、だったら自分でその敷居を越えていけばいいところを、この歌ではそうならない。ここにいるのは、丸腰の〈われ〉のほうであって、その〈われ〉は、(すくなくともこの歌の上では)拙速によその部屋に踏み込んでいきはしないのである。今にも不安に飲み込まれそうな自信の持ち方こそが、しかし私にはどうも昔カタギの男性主体のもろさであるとも思えてしまう。

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