朝あわく発熱をする少女いてまいまいつぶり生まれたと言う

東直子『青卵』(本阿弥書店、2001)

もう学校に行かなくてはならない時間なのに、風邪をひいたらしい娘が部屋から出てこない —— 、そういう日常のひとこまを、しかしこの歌を読んで思い浮かべる人はあまりいないだろうと思う。それは『青卵』に通底する説話的な雰囲気のせいでもあるのだが、この一首だけをみたとしても、「まいまいつぶり生まれた」という不思議な呪文に読者はやすやすと精神の世界へ飛ばされてしまうにちがいない。

『青卵』には、〈少女〉あるいは〈生まれる〉という語を詠む歌が多くある。標題の歌は両者を同時に含むわけだが、たとえば以下に引くような例を見れば、ふたつの語彙が常につながっていることに気づくのではないだろうか。

首夏少女まみどりの野にそめられて千夜めざめたままの目をする
「忘れたら淋しいじゃない」結末を持たぬ少女らつめたく光る
生まれそうな朝に紅茶を淹れていたワタシミジカイカミヲシテイタ
芽キャベツはつやめきながら湯にうかぶ〈生まれる前のことを話して〉

一首目の「首夏」は夏の始まりのこと。真っ青な草原に立たされた少女の「千夜めざめたままの目」というのはわかりにくいのだが、これは目覚めの瞬間のすがすがしいまなざしが、百日も千日も続く、そういう驚異ではないかと思う。その、つねに始まりの状態であることを課された少女が、ここではさらに夏の入り口に立たされている。〈生まれる〉もまた、人生の起点であるが、三首目の「生まれそうな朝」というその瞬間を引き延ばすような手つきに、一首目と同様の執着がある。「ワタシミジカイカミヲシテイタ」、それは〈少女〉として今にも〈生まれ〉ようとしていたころの主体自身なのだと思う。

掲出歌における「朝あわく発熱をする少女」とは、〈少女〉として〈生まれた〉瞬間の特別な発熱を言っているのではないか。その少女自身のセリフが「まいまいつぶり生まれた」である。それは人生におけるたった一度きりの感動的な〈目覚め〉である。胡麻粒ほどに小さい、しかし精巧な殻を一人前にもつ少女が、土の中の卵から、ひょっとすると何百何千といっせいに生まれ出た朝だったのかもしれない。しかし、あれほど〈始まり〉であり続けることにこだわるこの歌集の語り手にとって、〈目覚め〉をとげた少女の出現は、一抹の落胆をも味わわせるものだったろうとも思うのである。

*引用はちくま文庫版(2019)によった。

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