いきもののぬくみわが身にうつりしがまた冷めゆけりまぼろしのごと

横山未来子『とく来りませ』(砂子屋書房、2021)

「いきもの」とは、もちろん猫のことだろう。ひょいと膝の上に載った猫が、きまぐれに降りてしまう。あるいはふとんに入ってきて、また出ていったという場面かもしれない。ただ、この歌が言っているのは、猫そのものではなく、あくまで猫の「ぬくみ」である。猫の降りた膝には、まだ猫の「ぬくみ」が残っている。でもすぐに冷えていく。ひとの人生に、猫は途中から紛れ込んできて、ひとよりも先にいなくなってしまう。暗にそういうことをうたっているようにも思える。昔飼った猫のことを、たまにしか思い出さないような日々もやがては来てしまう。

行きたき場所見たきものあらばわが猫をわが傍らにひきとめられず
『花の線画』(青磁社、2007)
わが産みしものにあらぬに抱きすくめ〈わたしの猫〉とわれは言ひたり
『金の雨』(短歌研究社、2012)

こうして横山の歌集を読みついでいくと、しばしば猫に出会う。前回、第二歌集『水をひらく手』(短歌研究社、2003)の歌を引きながら、歌集後半で〈きみ〉が次第に後退し、隙間を埋めるように自然描写が増える、というようなことを書いた。ここでいう「自然描写」には虫や鳥などちいさな命へのまなざしも含まれるのだが、このモードは第三歌集以降定着して、現在に至る横山の作品の基調をなす。歌集のなかの〈われ〉は〈まなざす主体〉に徹し、身辺のうつろいを静かに詠みついでいくことになる。登場人物といえるような存在があらたに出現することない。

ただひとつ、一貫して主人公によりそっているのが猫である。歌集をまたいで登場するこの〈猫〉たちは、すべて同じ猫というわけでもなさそうなのだが(ふらんす堂の短歌日記『午後の蝶』[2015]を読むと、横山の猫事情がすこしわかる)、歌集の中ではその名前や猫種・色などに言及されることはほとんどないので、短歌という創作の上ではどこか概念としての〈猫〉を抽出しながら、「そういえばいつも猫がいた」と語っているようでもある。掲出歌のように猫そのものを措いて「ぬくみ」に着目したり、「まぼろし」とまでいうあたりにもこの抽象化という特質はでている。

いきものの体のすべて撫でをりてをさめゐる爪の硬さに触れぬ 『水をひらく手』
冬毛に雨をはじきて帰り来りしが飢ゑていらいらと甘嚙みしをり 『花の線画』
首筋に浅く嚙まれし跡あるを見をればかなしけものの雌の (同)
わが脚に鼻おしつけてねむりゆく息の出で入るふるへ伝へて 『とく来りませ』

猫と言明せず、「いきもの」「けもの」といったり、特有の動きを描写することに代える歌もまた多い。すると、ここにうたわれているのは猫というあのかわいいけがわの塊ではなく、まるで部屋のなかの空気の一点が、熱や「いらいら」の小さな塊になって主体にまとわりつき、すぐに離れていく、そんな感じがしないだろうか。目で見て「かわいい」と思う猫ではなく、ともに暮らしそのぬくみを感じ取る、そういう猫が歌集の中にいきづいている。

そういえば昨年の秋に私も猫を飼おうと思って、ペット可の物件に引っ越したのだったが、あわただしく移っただけでそれ以上の準備がなにもできず、そのうち日々のクオリアの依頼まで来てしまった。これはたいへんだというわけで、しばらく猫はお預けと思いながら毎日歌集のページを繰っていると、どうも猫の歌が目につくので、俺はよほど猫を飼いたいのかと思う。しかたがないので今朝は猫の歌を引くことにしました。

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