すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました

飯田有子『林檎貫通式』(BookPark2001

パソコンの操作でもするかのように、かつて一度は「すべてを選択」し、やがてそのうちのひとつを選びとって「別名で保存」した。その先に待ち受けているのはどうやら性愛の入口のような一場面である。しかし相手の、保存されたというその名前は「K」。名付けられながらも依然として匿名であり、同時にカフカの『城』や『審判』、漱石の『こころ』といった名作に登場しがちな「K」という男たちの物語を、この歌もうっすら引き継いでいる印象がある。結局のところ、「K」とは「選択」されうるすべての者たちということになるまいか。

れいこさんあれは誘蛾灯です青いけどまた髪のばしてくれますか
まりこさんまりこさんなら誰でもいいきゅうりパックの隙間より笑む
この春は魚住さんに似た人が多くてカップをソーサーに置く

わざわざ「別名で保存」しているのにかえって匿名性の強まってしまう怪異は、『林檎貫通式』のほかのいくつかの歌でも起こっている。たとえばこの二首目。主体は「まりこさん」と誰かに呼ばれる存在になることを希求する。それは大江麻理子でも千住真理子でも岡田茉莉子でもいい、借り物の「まりこ」像でかまわない。のっぺらぼうの自分の顔に、きゅうりパックを貼り付け、さてそれを取り去ったとき、出現するのはどのまりこかはわからないが、とにかく一刻も早く「まりこ」であることを獲得しなければならない。その「まりこさんなら誰でもいい」というパニック状態に、「隙間より笑む」と手際よく短歌の定型に落とし込んでいく冷静さの同居しているところが、私には怖い。やはり掲出の歌のように、誰かに愛される自分を、まるでパソコンを操作するように創り上げていく感覚があるのではないかと思う。

女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて

歌集の冒頭三首目に、こういう歌がある。いわゆる「生理の授業」に集められた女子たちをパラシュート部隊にたとえるとき、そのひとりひとりは、まるで国運のために召集される駒のように個性の殺された名のない存在になる。この女子たちが、将来、名前をもって語られる存在になるためには、いってしまえば〈木口ラッパ兵〉や〈爆弾三勇士〉のごとき誰かにならなければならない。「まりこさんなら誰でもいい」という発作のようなあせりは、おそらくはそこに起因している。

『林檎貫通式』に描かれるのは、奔放に楽しむ恋愛であるように見せかけながら、じっさいのところはその〈名前〉の獲得闘争であり、またそのさなかにいる自分をどこか冷めた目で見ている主体であると思う。掲出歌においては、性愛の相手までもが例外的に「K」という半匿名の名で示される。恋愛や性愛のさなかにいるとき、自分のみならず自分の考えで「選択」したはずのものさえ、いつしか透き通ってしまう。愛情に浸りながら、まるで「国運」のごとき遠いものに、かなたから糸を引っ張られたまま、パソコンを操作しているのは自分なのか、その遠い誰かなのかもわからなくなって、結局は名のない尋常な駒のままの性愛に入っていく。その悲しさを、主体は感じていると思う。

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