「凍てる」とはただ一点が痛むこと 「冬」は鼻腔の奥で決めます

中森舞『Eclectic』(青磁社、2020)

冷え込んだ朝、屋外にいると凍てついた空気が鼻から入り込んでつーんとする、あの感じのことを言っているのだろう。〈寒さ〉は体の表面のあらゆる場所で感じられるが、「凍てる」は鼻の奥の、あの一点でしか感じることができない。そういわれればそんな気がしてくる。そうして、その「凍てる」こそが冬の正体であるという。身体の一部分をうたう歌は世の中にいくらでもあろうが、鼻の奥の、あの「つーん」の一点に読者の意識を向けさせたのはこの歌ぐらいではないかと思う。

誰の鼻の奥にも、たしかにあるにちがいない、つーんとするその場所は、残念ながら、本人にも、他人にも見ることができない。われわれはただ、つーんという感覚でのみその一点の存在を知ることができる。私はさっきから「つーん」と書いているけれど、その感じのことを、この歌が「痛む」といっているのは忘れてはならないと思う。「痛む」ことでのみその存在が感じられる身体の奥のある場所、それは〈心〉にも似ている。

生きている人の体はぬくいから睫毛の雪は雪じゃなくなる

『Eclectic』の、掲出歌のひとつ前にある歌。そういえば先日、横山未来子の「いきもののぬくみわが身にうつりしがまた冷めゆけりまぼろしのごと」(『とく来りませ』)を紹介したのだったが、こんどは人のぬくみである。横山の歌では、猫が去ればすぐに消えるほど、ぬくもりははかないものだったが、ここに引く歌の、人のぬくもりは消失せず「睫毛の雪」を溶かすという効果をもって主体の身体の上に残り続ける。「「凍てる」とはただ一点が痛むこと」とうたった掲出歌とも裏腹に、睫毛という身体の先端部から満たされていく主体がいる。

通るたび数学研究室のドア白い指紋が欲しいの先生
髪の毛がプチンと切れて絡まってボタンに残る関係にして
心臓と小指は遠く繋がってぎゅっとされたらぎゅっとなります
霧深い苔むす森の菌床にあなたの小指生えていました

はたして『Eclectic』という歌集は、身体の局所やその痕跡へのこだわりに満ち、それはときにここに引くような、いっけん奇っ怪な歌にも昇華される。それらにはどうやら、他者とつながりたいという切実な願いが潜んでいるらしい。身体の先端部が誰かの心とつながって、「ぎゅっとされ」たいというその望みが果たされないとき、身体の奥の一点がつーんと空白になっていくような痛みにおそわれる。掲出歌がうたっていたのは、そんな〈冬〉なのだ。

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