藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(角川文化振興財団、2018)
この一首が気になってすこしのあいだ見つめているうち、その人の姿がありありと目に浮かぶようだった。「花瓶」とは、細くて背の高い一輪挿をイメージした。それで喩えられる人であるからして、瘠せた、身長の高い人なのだろうと思う。その人自身は「花瓶」(一輪挿)のような体だが、話しながら笑うとき、そこに花が出現する。静かな、しかし主体にとってはなにより華やかに見える「笑ひ」なのだろうと思う。そしてその前に「みづ」に喩えられる「相槌」があった。花や笑いよりももっと根源的なレベルで主体の欲しているのが「みづ」であり、「相槌」であると読みとれるだろうか。相槌とはつまり共感であり、心どうしのつながりである。
これは歌集中の「冬の鷺」という連作中の一首であるが、その前後には
灰のごと雪の降りゐる窓を背にあなたはずつと話してゐたよ
降り終へた雪がもつともさびしいと指にすくひてあなたは云へり
といった歌があり、状況がより見えてくるだろうと思う。「花瓶」に例えられるこの人は、掲出の一首のみで想像されるよりもずっと主体に親しげだ。しかし、主体自身は交わされていた会話にどこか上の空だったという感じが、私にはしてしまう。背景で雪が降っていたというのも意外だが、掲出歌の「みづ」には、凍ることのないかすかなぬくもりが投影されているのかもしれない。相手との関係を渇望し、そしてその人が目の前にいるのに、どこか冷静に相手を観察するような不思議な距離感がある。
傘をさす一瞬ひとはうつむいて雪にあかるき街へ出てゆく
雪といえば、これは『海蛇と珊瑚』の、冒頭第一首目の歌。つまり今日の掲出歌とは別の連作(「花と雨」)にあるのだが、やはり繋がるところがある。主体とその「ひと」は離れた場所にいるのか、並んで外へ出ようとしているのか、はっきりしない。「あなた」とは言わず「ひと」と呼び、「一瞬ひとはうつむいて」とあくまでつきはなして観察しようとする主体がいる。
淋しいと言つて雨よりはやくねむるあなたの傍に目薬をおく
一本の花をささへてゐる水はいつから生きてきた水なんだ
傘させばあなたは翳るいつからであつてもひとはひとりで燃えて
一度だけ繋いだ手から傘を出しひらいた 傘は雨に痺れる
雪から始まる歌集は、しぜんいきつもどりつしながら春や夏へと季節のコマを進めていく。くりかえしうたわれるのは傘や雨であり、雨はつねにその人の存在と一体になって降っている印象がある。その人のことを懸命に語っているのに、主体のまなざしは相手のからだを透過して、いつしか雨ばかりを感じている。ついにはそんな境地にたどりつく。