見れるだけ爪を見ている少年の母の怒号を受けてる睫毛

川島結佳子『感傷ストーブ』(短歌研究社、2019)

少年(たとえば小学三年生くらいを想定してみる)が、なにやら母親から叱られているのだが、怒号というのだからたいへんな権幕であるらしい。少年はそんな母をよそに自分のゆびさきを見つめるふりをしていて、母には目を合わせようとしないし、言われていることも聞かないふりをしている。聞かないふりをするけれど、ほんとうは聞いている。聞いていながら、意地でも聞くもんか、とも思っている。もちろんそんな少年の心理まで歌には説明されていないのだが、この歌ならそこまで読みこんでも許されるという気がしてしまう。なぜだろう。「見れるだけ爪を見ている」のあたりになにかがある。

見れるだけ爪を見る少年。爪なんて見ただけで減るもんではないのだから、いくらでも見ればいいと思うのだが、実際のところこれは「母親の怒号を無視し続けられるあいだは、爪を見るふりをすることにした」、そんなところかと思う。それをこの歌の語り手(主人公)は、少年の身になって「見れるだけ爪を見ている」とやさしく言い換える。まるで助け舟を出すかのように。他者に対しこんなにもひそやかなやさしさを示す歌を、これまで見たことがあっただろうか。

掲出歌を含め、『感傷ストーブ』には、ドラマや映画でいうところのエキストラが多く登場する。この歌集の主人公は、自分に自信がもてないひっこみじあんのように描かれながらも、同時に不思議と行動的で、いつも街の中にいる。さまざまな路線の電車に乗り、行った先々で見かける人を歌にスケッチしていく。

「女って、つまんないよな」停止した電車の中で男二人が
私もう若くないなと四歳の女の子が妹見て言う
ローマ字をがんがん漢字に変えてゆく中国人のスマートフォンは

どうも主人公は、エキストラの言動にかすかに反射する自分自身を見ているらしい。「女って、つまんない」と男たちが言い合うのを聞いたとき、主人公は少なからず傷ついたにちがいない(この傷は歌集終盤に「「つまんない女だ」君と私とで笑う私のつまらなさなど」という歌が示されることで多少癒されることになる)し、あるいは、四歳の女の子が「私もう若くない」といえば、それより何倍も年を取った自分は……という冗談のような軽い慨嘆がここに隠されることになる。中国人の打つスマホを盗み見るのは、その勢いにある種のあこがれを抱くからではないのか。つまり、これらのエキストラは、主人公に自分自身を考えさせる、たんなるエキストラ以上の任務を帯びて歌集に登場しているのである。

母親の怒声をあびる少年をとらえた掲出歌は、しかしここに引いた三首とはちがう価値を持つと思う。他者をまなざすということが、つい自分と他人を比べてしまう悪い癖から、共感、そして、見守るということへと変質しているのだ。少年は母の代わりに自分の爪を見、主人公はその少年の代わりに少年の睫毛を見る。睫毛は少年の代わりに母の怒号を浴びて、もしかするとぴくぴくと震えていたかもしれない。実はこの瞬間、主人公の立ち位置は子供をそっと見守る〈母〉の位置にスライドしていたともいえる。もうひとりの〈母〉が存在したことなど、少年には知りようもないのだけれど。

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