口角を上げて笑へと書かれゐる接客マニュアルのさびしき笑ひ

佐藤モニカ『夏の領域』
(本阿弥書店、2017)

新年度なので仕事にまつわる歌を引くことにした。この一首には〈笑い〉が二度登場する。いずれも接客マニュアルに書かれているテクニカルな笑いである。仕事だ! という感じがするだろう。歌集ではこの次に、

ウイスキーと言へば口角上がるらしウイスキー飲まぬわれも上げたり

という歌もある。それもマニュアルに書かれているのか、現場での指導なのか、商売のためならば嬉しくない人も笑わせようという奇妙な欲望が人間の世の中にはあるらしい。主体は、大勢のスタッフたちと同様に、口角を上げて笑えという指導をひとまずは聞き入れ、その欲望につきあうことにことにする。だとすれば、本当にうたうべきは「嬉しくもないわれも上げたり」のはずである。そのことを主体もきっとわかっている。しかし自分自身をごまかそうとするかのように、「ウイスキー飲まぬわれも」と、とぼけたようなことを言わなければならない。

掲出歌に戻ると、その、強要される笑いを、ここでは「さびしき笑ひ」と言っている。この歌の上の句の〈笑い〉は職場で配られるマニュアルにある命令形の「笑へ」。それを主体がどう思うかを語っているのが歌の末尾の「さびしき笑ひ」である。妙なことが気になったのは、この一番目の「笑へ」の というおくりがなの一字が、むすっと不機嫌に口をゆがめて結ぶ形をしていること。それに対し、「さびしき笑ひ」の は、にこにこマークの口のようなくっきりと笑う口の形をしている。「笑へ」といわれても口を歪め、なのに彼らの求めるビジネススマイルを「さびしい笑いだ」と咎めときは、まるで嘲笑するかのように、ここぞとばかりににっこりと笑う。

これはもちろんまっとうな歌の読解とはちがうのだが、主体が表側では社会の求める役割に従順さを示す一方、そんな社会を嘲笑するもう一人の主体が歌の裏側に張り付いているのが見えた気がしたのだった。そう思って読むと、近いページにある次のような歌が語るのも、自身が従事する商売への破壊願望だと思えてくる。

猫の手も借りたしされど借りたならさぞぐちやぐちやになるのであらう

もっとも『夏の領域』という歌集は全体としてはそんな〈裏の声〉を強調するような歌集ではない。(あとがきにある作者の情報も総合して読めば)夫のふるさとである沖縄に移り住み、現地の気候風土に親しみながら思いは沖縄戦で犠牲になった人々の魂や基地問題へも及ぶ。破壊よりも持たされたものを慈しみ愛することをテーマとしながら、歌集の終盤では主人公の懐妊と出産が詠まれる。

人の世に足踏み入れてしまひたる子の足を撫づ やはきその足
おそらくは猫に違ひなし折々に耳の後ろをかく子の前世
飛べさうで飛べぬ空なり子を抱きて地にどつしりと足つけて生く

もちろん主人公は自分の子の前世が猫だなんて本気で信じているわけではない。人の子であればいつかは人の世をどっしりと歩かせなばならない。でも、人間の世にまだ汚れないいのちを、できればやわらかな足のままに護りたい。「猫に違ひなし」には、人の世の拒絶と、ほんのすこしの破壊願望が、やはりにじんでいるように思う。

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