桜散る川沿いにひと群れながら私たちみな川の見る夢

小島なお『展開図』
(柊書房、2020)

目黒川の桜まつりのような情景だろうか。にぎわうなかを歩きながら、ふと今この瞬間の自分がここに横たわる「川」の見ている夢のなかの登場人物なのではないかと思われた。ぼんやりと桜の咲く景色や夢の雰囲気を示しながら、下の句でやや理屈がちになるところがむしろ心地いい、不思議な味わいがある一首だと思う。

人は、川の両岸を日々行き来するように、現実と夢というふたつの世界を往復しながら人生を歩いている。現実の方は続きもののいつも同じ舞台だが、夢の方はふつう毎夜あたらしい舞台が設定され、その中の主人公である自分もまた新しい生を迎え入れる。ソメイヨシノの見頃は毎年数日間に過ぎない。いつもの〈現実〉を生き継いでいく中で、不意に〈桜の咲いている現実〉という、いつもとは違う現実が、夢のごとく短く挿入される。夢と現実の順序が乱れたように感じ、ついには自分が今、自分ではないだれかの夢の中を歩いているという気がし始める。

「あと何度桜を見られるか」といったお決まりの文句があるように、桜の花はいつも人の生き死ににまつわる観念をはらむ。この歌も、人の生は桜の花のようにつかの間、というのはもちろんのこと、短い生を何度も生きなおすうち、自分が今、どこのだれの人生を生きているのか、わからなくなってしまった、そんな想念が微含されているように思える。実際、同じ歌集中の、夢に加え、記憶、空想を語る次のような歌はそのイメージを補強する。

眠る身に渡り廊下がひとつあり私ばかりが通るのだった
自分こそ誰かの記憶かもしれず椿の奥に講堂がある
肉体は空想にこそ宿るのに奥行きもちてきみが待ちおり

三首目の「奥行きもちて」というのは、わかりやすくいえば、目の前の風景が不意に3Dのように明瞭に見えるようになって、というようなことかと思う。第一歌集『乱反射』以来、小島なおの歌集は自身の年齢を追うようにつむがれてきたが、第三歌集に至り、見える世界がときたまかすみ、ぐらつくようになる。それが『展開図』という一冊の大きな特質である(思えば『乱反射』の学生時代の主人公は、見えすぎるほどに明瞭に〈自分〉を見つめていたと思う)。ふいに霧が立ち、また晴れるといったことが繰り返される一方で、あいかわらず進んでいく人生という現実を手掛かりにしながら、結局は自分の生を生きていくしかない。

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