ほの白き卵を守りつつ女王蟻も身をよじるかな あくびのために

早川志織『種の起源』
(雁書館、1993)

いわゆる結婚飛行を終えた新しい女王蟻は翅を切り落としたったひとりで地中に潜ると、最初の働き蟻に成長する卵を産む。まだ働き蟻はいないのだから、このときの卵や幼虫は女王が自分で世話をしなければならない。掲出歌はそのような、蟻の巣の黎明期のひとこまをうたっているように思う。

『種の起源』という歌集題は

「強い者だけが生きる」という言葉 『種の起源』一冊、貝の上に置く

という集中の一首にちなんでいる。この歌の『種の起源』はもちろん進化論を主張したダーウィンのそれであるが、その題を借用した早川志織の歌集『種の起源』にはまた、オオクワガタ、ダチョウ、テフレシア、ガジュマル……と多くの動植物を登場させながら、掲出歌に象徴的なように、〈種〉というよりも一個の生命の根源に焦点をあてていく。

厚き葉に片耳寄せてゴムの木の言葉聞こうとする昼下がり
くちちかく寄せてものいう君の息にミツバチのごと我は吹かれたり
視姦されているのだろうか 振りむけばキダチアオイが陽射しに揺らぐ
自らがアキノキリンソウと呼ばるるを黄の花たちは知らず光れり

一首目・四首目が示すのは人間(または人間としての〈われ〉)と動植物とのディスコミュニケーション、つまり人間の言葉は、人間以外の生き物には通じようがないということである。しかし歌集中で、両者の唯一の共通言語は案外すぐに見いだされる。それは生殖と性愛である。言い方を変えると、この歌集は、人間の〈われ〉と人間には知ることのできない世界で展開される動植物の生というふたつのチャンネルで表現され、両チャンネルをつなぐ蝶番として性愛があつかわれる。たとえば、三首目は人間の〈われ〉とキダチアオイという植物をつなぐ蝶番として「視姦」という強烈な言葉がある。

掲出歌は、人間と共通言語を持たず、われわれには覗き込む術もない蟻の生活のひとこまをある種のあこがれをもって夢想し、うたっていた。しかし、この歌の「卵」が結婚飛行という蟻の性愛の結果だと考えるとき、その蝶番で女王蟻とつながるはずの〈われ〉の存在が想定されることになる。女王蟻に〈われ〉の姿が重ねあわされているのではないか、その可能性を指摘しておきたい。出産・子育てをする〈われ〉は第二歌集『クルミの中』(2004)で描かれることになる。

さて、1993年に第一歌集『種の起源』を刊行した早川志織は、性愛を暗示する言葉を巧みに用い、男性と恋愛する〈われ〉と動植物へのあこがれというふたつのテーマを両立させた。しかし思うのである。2024年に第一歌集『種の起源』を世に出すもうひとりの早川志織がいたら、女性としての〈われ〉を詠むことの呪縛など意に介さず、もっとストレートに生物への偏愛を表現しえたのではないかと。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です