魚村 晋太郎


男根はさびしき魚と思ふとき障子に白き夜半の月かげ

高野公彦『天泣』(1996年)

昔の日本の家は、夏は風を通すために障子は外すか開けはらい、秋になると張り替えたものをはめ、冬は風をよけてひかりを取り入れるのに重宝した。
それで、俳句では障子といえば冬の季語、障子洗う、障子貼る、は秋の季語になっているが、現代の家では年中出しっぱなしのことが多いだろう。

男根と障子というと、つい石原慎太郎の『太陽の季節』のシーンを思い出してしまうが、一首はどんなシュチュエーションなのだろう。
情交の前、思うようにならないさま、ということも思ったが、そんなときは障子越しのうつくしい月かげには目がゆかない。
情交の後という可能性はあるし、そう読んでもおもむきはある。
けれど、やはり主人公はひとりでいるのだろう。
女性にはわかりにくいかも知れない。
が、男根はさびしき魚、とはなんともやさしい物言いだ。

仕事を終え、或いは、風呂をあび、ゆるい寝間着に着替えて床に就く。
ある女性ことを思っているうちに、なんとなく下腹部が充血してくる。
若い頃のような感じではなく、その充血はいつのまにかすうっとひいてゆく。
障子越しの月かげは、壮年をむかえた主人公の思慕に清清としたひかりをとどける。

  無精ひげに白混じりゐて悲しけれ体露金風(たいろきんぷう)みづからに見る
という、茂吉の白毛の歌を彷彿とさせる歌が同じ歌集にある。
金風は秋の風。体露金風は禅語で、秋風に木の葉をおとした樹のような清清とした老境をいう。
しかし、本当に老境に入ったひとはこんなふうに詠わないだろう。
老いの気配を感じながら、ひとを想う気持ちは消えない。
そんな夜更けのしずけさが、じんと伝わってくる一首だ。