わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間ぞなき

二条院讃岐『千載和歌集』(1187年)

*潮干に「しほひ」のルビ。

 

讃岐の歌を、もう一首。せっかく山本周五郎の小説に知った歌人である。知識を深めておこうではないか。

源三位頼政の娘であることは述べた。この歌が代表歌となって、「沖の石の讃岐」と称されたという。

技巧的な一首で、筋立てた訳はむずかしい。袖が乾く間もないほどに涙に暮れる。それほどにあなたの思いは、潮がひくように遠いものになってしまった。他の人には沖の石のように知られていない忍ぶ恋なのに、あなたはつれない。私がこんなに歎き、涙に沈んでいることをあなたは知らない。これらの思いが、巧みなる和歌的修辞によってこの歌に合体している。

塚本邦雄は、『清唱千首』(冨山房百科文庫)にこの歌を選び、評に家集『二条院讃岐集』では、初句が「わが恋」になっていることを指摘する。そのほうが「より強く、しかも『乾く間』に即(つ)き過ぎずあはれは勝る」言う。どうだろう。家集のかたちで、記してみる。

 

わが恋は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間ぞなき

 

どうだろう。ぜひ比べてみてほしい。塚本は、「千載撰入の際、撰者俊成が手を加へたものか。」と言っているが、さもありなん。私は、塚本の意見に引かれる。

これも塚本の指摘だが、父頼政に、

 

ともすれば涙に沈む枕かな潮満つ磯の石ならなくに

 

があって、「併誦すると一入ゆかしい」とある。これもぜひためしてほしい。

 

荒れ果ててわれもかれにしふるさとにまた立ち返り菫をぞ摘む  「千五百番歌合」

人はみな心のほかの秋なれやわが袖ばかり置ける白露      『新後撰集』289

世に経るは苦しきものを槇の屋にやすくも過ぐる初時雨かな   『新古今集』590

 

これらは塚本が『清唱千首』に選んだ讃岐の歌だ。とりわけ一首目、塚本は「この歌合当時讃岐は六十歳前後、父頼政が宇治平等院に討死してから、既に二十余年の歳月が過ぎてゐた」ことに注目している。この故郷に菫摘むイメージに、父の面影がなかったかと言いたいのであろうか。「千五百番歌合」は、1202~3年頃、讃岐は、それからなお十余年生きて1217年頃、76歳ほどで亡くなったという。