伊香保ろの八尺の堰塞に立つ虹の現ろまでもさ寝をさ寝てば

『万葉集』東歌・巻14 3414(8世紀)

*八尺に「やさか」、堰塞に「ゐで」、虹に「のじ」のルビ。

 

『万葉集』巻14は全巻「東歌」である。238首、その全てが短歌形式であることが注目される。古代東国地方の民謡という捉え方もあるが、全て短歌形式であることを、どう考えるか疑問がある。ただ、今日のこの一首をみても、語彙に東国特有のものがあるから、民謡的な要素が強いことは確かである。

この一首、「上野(かみつけぬ)国」、現在の群馬県の歌である。伊香保は、温泉街が有名だが、その一帯、榛名山麓を指す。「八尺(やさか)の堰塞(いで)」は、八尺は、高さをあらわし、「ゐで(堰塞)」は、堤の堰、つまりここは高い高い堤防を意味する。

そして、そこに立つ虹――「虹」は、『万葉集』にはこの一首だけだという。しかし、虹は目立つ天象である。古代中国では不吉な標とされた例もあるが、『日本霊異記』には、吉祥とされたと、近藤信義『東歌』(笠間書院・コレクション日本歌人選)は説く。あるいは、中沢新一は『詩経』を引いて、虹は「エロチシズムの重要なメタファー」(『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書)に言う。この歌の場合、まず中沢説に従うのがよさそうだ。それが吉祥につながる。

東歌は、いわば縄文文化の色濃い東日本で作られた。それだけに古い形が残っている。この歌もそうだ。表現技術を言えば、この虹までが、比喩による序になっている。ここまでが序歌的な表現である。

 

この伊香保の山の八尺、つまり高い高い堤防のあたりに立ちのぼる虹、――その虹ではないが、あのように、人の目について露見してしまうほどに、情交を重ねることができたらなあ。

 

人に知られては困る愛人関係にある人の恋歌である。常には逢えない二人である。心のままに身体の求めるままに愛し合いたい。その思いを虹に託した。山を越すほどにあらわれた虹、「その虹ではないけれど」といったん否定し、そこから反転するように、あの虹のようにみんなに知られてもかまわない。二人で満足できるほどに愛し合うことができたなら。

古代人の野生のエネルギーを感じないだろうか。虹と心と、ほんらい違うものを類似性でつなぐ表現技法、それがストレートな力となっている。東歌の魅力である。

この三月に万座温泉からの帰りに伊香保あたりを訪れた。榛名山方向に虹を探したものの、空を雪雲が覆う一日であり、ときに雪さえちらついた。とても虹は望めず、また「さ寝をさ寝」などという情熱も失せてしまったかのようであった。

それから四か月、そろそろ梅雨明けの声が聞こえてくる。今年は梅雨というより短時間の豪雨にたびたび襲われた。すかっと虹が立ち昇ってほしいものである。