よるべなく なほ南溟の空をとぶ。ああ戦友別盃の歌

岡野弘彦「短歌」(2013年11月号)

 

岡野弘彦が、国学院大学予科に入ったのは1943(昭和18)年、学徒動員のはじまった年である。予科ながら在学中の召集が確実視される学生に、金田一京助、武田祐吉、折口信夫という国学院のもっとも優れた教授たちの講義が提供されたという。ただ半年もすると岡野は豊川海軍工廠で40ミリ機関砲を作る重労働に従事、そして1945(昭和20)年1月召集、大阪の橘53部隊に入隊。本土防衛のため茨城県鉾田に部隊の移動中、3月10日の東京大空襲に遭遇し、空襲犠牲者の死体の処置に携わるという苛酷な経験をしている。

同じ世代の多くが命を失い、特攻隊として死んでいった者も身近にあった。まさに戦中派であり、折口信夫のもとで短歌を作りはじめた当初から戦死者への鎮魂が、岡野短歌のもっとも重要なテーマであった。90歳になる今でも、その重い課題を背負いつづけている。

ここに紹介するのは、昨年11月に発表された「敗戦」と題する一連の一首である。

 

とこしへに 心底(こころど)ふかく刻みおかむ。戦ひ死にし友の恋歌

一(ひと)夜にし神と成りにし魂は、今はいづくにさすらひいます

 

岡野ならではの戦いに死んだ同世代への思いが歌われている。皆まだ若かった。残された永遠に遂げることない恋歌を忘れることはできない。死んで一夜にして神として祀られる。その異常な神観念――はたしてそれで日本の未来を信じて死んでいった者たちへの鎮魂が果たせるのか。岡野の思いは深い。その思いが、くりかえし岡野に若き戦死者を歌わせる。

「南溟」、南方の大海。南方の群島地域にひろがった戦地に送られた若き兵士たちの魂は、いまも鎮まることなく漂う。この歌のイメージは、南方の海に向かった特攻隊への鎮魂であろう。思い返されるのは、大木敦夫の当時の詩「戦友別盃の歌」である。この詩は、戦中の別離の詩として人気があった。この詩に送られて戦地へ赴く者もあったろう。

 

言ふなかれ、君よ、わかれを、

世の常を、また生き死にを、

海ばらのはるけき果てに

今や、はた何をか言はん、

熱き血を捧ぐる者の

大いなる胸を叩けよ、

満月を盃(はい)にくだきて

暫(しば)し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、

わが征(ゆ)くはバタビヤの街(まち)、

君はよくバンドンを突け、この夕べ相離(さか)るとも、

かがやかし南十字を

いつの夜(よ)か、また共に見ん、

見よ、空と水うつところ

黙々と雲は行き雲はゆけるを。

 

戦地へ赴く者の気分をよく表しているのだろう。ぜひ声に出して読んでほしい。どう感じるだろうか。漢詩の戦征別離の伝統を踏んだようなこの詩の哀感。私は優れた詩だと思う。これまた戦争協力の詩であろうが、記憶されてよい詩だと思う。「文化部隊の一兵としてジャワ作戦に参加」した大木敦夫は、北原白秋門の詩人である。