すぎさつた時間のなかに和服着るすずめが居りてときをり踊る

 池田はるみ『池田はるみ歌集』(2013年)

 

たしか小沼丹の小説で、語り手の私が、お宮参りか何かで人のたくさん集っている座敷に坐って居て、ふと向こうをみると、襖が開いた向こうに自分の亡くなった叔母さんが何やらしている姿が見えて、ああ叔母さんがいるな、と別に何の不思議も覚えずに思う。それからまたしばらくして、目をそちらにやると襖らしいものはなくなっていて、ただの壁だった、という一節があったと思うが、ためにする怪談とちがって、こちらの方がよほど真に迫っている。

言葉とか人間の想念とかいうものは実に不思議なもので、掲出歌であるが、すずめは確かに和服を着て踊っていたことがある。つつましいお洒落に身を包んで、時にはお転婆のぴいちくぱあちく、仲間同士おしゃべりをして、腹が立てば突きあいもしたりなんかする。でも、相応のたしなみもあるので、踊れと言われれば、それはそれ、すずめ百まで忘れずの踊りの技を披露してみせたりなんぞしていたのだ。

こちらは読んで自然にそんな気がしてしまうところが、池田はるみの持ち味で、これは誰にも真似ができない。超絶技巧のユーモアがあって、でもそれは天然のもので、自ずからそうなったというふうに感じられるのは、作者の根っこのところに、しかとつかみ取った大阪の言葉の精神がはたらいているからだ。

池田はるみの歌は、大阪言葉をしばしば歌のなかに持ち込む。いけすかない現実の事象をぽいと地口や洒落で丸めてみせる庶民の話し言葉の持つ弾みを、池田はるみは己の歌の源泉として取り込んできた。

掲出歌は、異類絵巻の画家たちの想像力を下地にして、さらに作者の姉さん世代の戦時中の女子学生の風俗のようなものとか、自分の母親や祖母の年代の女の風儀や居住まいについての記憶とか、自身が幼い頃に大事に育てられた思い出などを混然と一首の底に沈めている。もとの歌集は、『南無 晩ごはん』(2010年刊)で、これはそこからの抄出の中から拾った。

 

編集部より:『池田はるみ歌集』はこちら↓

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