ざつとまたひと雨あらん包丁に水よくなじむ夏のゆふぐれ

小島ゆかり『六六魚』(本阿弥書店、2018年)

 


 

(『六六魚』の歌について記しているうちにいつも以上に長くなってしまったので2回に分けます。それから、平岡さんと連続してしまうというのは、たまたまタイミングが合ってしまったというだけで、特別な企画だとかそういうことではないです。)

 

「タイトルの「六六魚」(りくりくぎょ)は鯉の異称である」と「あとがき」にある。

 

童謡、唱歌の類い、というか、童話のような語り口調や雰囲気を、今回の『六六魚』には特に感じた。内容自体に童話ということを感じる場合もあるけれど、とにかく語り口調・雰囲気としか言いようのないなにか。文体、というのともちょっとちがう気がする。ひとつひとつの語彙と構成は素朴なのだが、感覚や思考や余情が重層的なので、素朴とか優しいというふうにだけ言うのはためらわれる。もちろんそこには、いわゆる韻律や調べといったものもかかわってはいるけれど。

 

学生の牧水がゆきし夏の旅追ひかけて深き秋の旅ゆく
湯にほてるからだやはらかくねむりたりもみぢの山の夜のふところ
はるぞらのどこかチカッとひかりつつあけつぱなしの文房具店
人はやさし人はややこし春の夜の指はきりなく駄菓子をつまむ
春畑の土くちばしに含みたし鳥になりこのうまさうな土を
くりかへし夏はめぐりて瓜を食むおかあさんおばあさんひいおばあさん
ゆく夏の母のわたしは油蝉、祖母のわたしは蜩(ひぐらし)ならん
歳晩へ急ぐ時間をせきとめるひらがなばかりの小一の歌

※( )内はルビ

 

上に、重層的、と言ったが、それを主に担うのが、空間と時間とが掛け算されて混じり合うようなところと、独特の体感があらわれるところ。童話的な表層の雰囲気に流されて見過ごしてしまいそうになるのだが、かなり特異なそれらがあらわれているように思う。

 

亀を乗せ石やはらかく濡れてをり未生・生前・死後の夏あり
亀は石に石はときどき亀になりとろりと瞑(つむ)る時間のまぶた
千年前、万年前の葉音して武蔵野に風の季節はじまる
病む母をねむらせ長くすわりをり臀部にたまるさびしき時間

※( )内はルビ

 

三首目、〈今・ここ〉に聞こえる「葉音」が「千年前、万年前の」と規定され(もちろんそれは、太古から変わらない音、ということを伝える表現だが)、それが風に乗って「武蔵野」を走るとき、その風が行く距離(つまり武蔵野の広さ)が、まるで時間の尺度・単位によって測られているような気になる。四首目、長く座ったことによる「臀部」の〈今・ここ〉の体感が、「時間」によって、しかもさびしいという感情の溶かされたそれによって表現されている。一、二首目は、単純なようでいてさらに複雑だからここでは説明を避けるが、〈今・ここ〉の空間がたやすく過去から未来まで幅広く時間を含んでしまっていることだけはすぐに伝わってくる。「亀」と「石」が混じり合うだけ、あるいは、〈今・ここ〉のなにかに「過去」あるいは「未来」を直感したり「過去」と「未来」が同時に出現したりするというだけでなく、つまり空間同士の、または時間同士の混交ではなく、そもそもカテゴリーのちがう「空間」上のなにかと「時間」上のなにかが掛け合わさるような感じがあると思う。(三次元とか四次元とか言い始めるとややこしくなるのでそれは避けます。)

 

そして、上に記したすべての特徴を引き連れるようにして(というか上に挙げた歌にもそれは含まれるのだが)、体感の歌がある。引用すればキリがないのだが、たとえば次のような歌。

 

雪雲のはれてかがやく雲のあさ大失敗をするかもしれず
ざつとまたひと雨あらん包丁に水よくなじむ夏のゆふぐれ
豆腐一丁水に沈めてしづかなるこよひ豆腐も雨を聴きをり
群鳩は噴水をつかむあそびして冬空へちる微粒子われは
寒がらす鳴けばにはかに黒髪のつやめきいでて水飲む娘
雪のにほひかすか嗅ぎあて空腹は空にちかづく時間とおもふ

 

四首目の、「群鳩」と「われ」と水が「微粒子」として溶け合ってしまうようなところは、語の構成の仕方とも相まって、読者自身の体をさえその輪郭から「微粒子」にして拡散させてしまうのではないかという気になるし、六首目の「空腹は空にちかづく時間とおもふ」という説明は、嗅覚を介して、「空腹」を抱える体をダイレクトに「空」のほうへ物理的に近づけ、しかもそこに時間的な幅を与える。これらはだからむしろ読者の「体感」をも刺激する歌としてわかりやすいのだが、それ以外の歌の、たとえば一首目、「雪雲」から「かがやく雲」への物理的・時間的な変化や「雲」のその質感そのものが「大失敗をするかもしれず」という不安や(むしろその逆の)すがすがしさへの直観をみちびいているところや、今日の一首である二首目、「ざつとまたひと雨あらん」という体感が、(おそらく)金属である「包丁」の質感と癒着しているようなところは、韻律や調べの効果も引き連れながら、わかりやすく、でも実は相当に複雑なかたちでこちらの体感そのものを刺激してくるように思うのだ。「わかりやすく、…」が読者としてはありがたくしかし危険なところもあって、歌に無批判に陶酔を誘われてしまうような感じもあるから、僕などは「危ない、危ない」と一応思いながら、でも結局はそこに身をあずける、というようなことをしている。……というか僕はなにを危ないと判断しなにに抵抗しようとしているのだろう。

 

次回は『六六魚』のまた別の歌です。