がんばったところで誰も見ていない日本の北で窓開けている

北山あさひ「カニと餃子」(「ヘペレの会活動報告書」vol.1:2018年)


 

歌にバックドアがあるような不思議な感覚にとらわれる一首。入り口以外の出入口があり、そこからはこの歌以前にはみえなかった景色がみえる。読者をみつめてくる短歌は多いけれど、この歌には背を向けられているという感じがする。それは、上句のいじけた感じからだけでなく、「誰も見ていない」という確信と、それを読者がみていることの矛盾によるものだと思う。歌の背中ごしにわたしも北の窓をみる。正確には、この歌は「日本の北」と地理的な条件を指定しているだけで、窓が北窓だとは言っていないけれど、開けても外から誰にも覗かれない窓は、建物の裏手にある窓を思わせる。また、あまりにがらんとしたこの歌は「日本」をひとつの建物であるかのようにみせる。北山あさひには二〇一四年の短歌研究新人賞の最終候補作で、受賞には至らなかったものの話題を呼んだ「グッドラック廃屋」というタイトルの連作があるけれど、この「日本」も建物というだけでなく廃屋のようでもある。建物の裏でもあり、日本の裏でもある奇妙な空間に向かって窓が開く。一首に宿るのは孤独や不服なのに、あかるく、すずしく、風がとおり、気持ちがいい。がんばりを誰もみていないことにはよろこびや開放感があることも思いださせられる。北の窓は光が入らないけれど、順光なので景色がクリアにみえるのだ。北山あさひの歌を読むとどうして崖のことを考えるのだろう。
このがらんとした印象の理由は、歌のなかに中心がふたつあることによると思う。「日本の北」という言いかたには「日本」というものの中心がここではない、という認識があらわれている。自分にとっての中心=現在地と、自分が属しているはずの「日本」の中心地がずれていて、掲出歌の軸足は二ヶ所に置かれているのだ。北山には同じようなずれを自意識の内部で起こしている歌もよくみられ、端的なのは「自分がふたりいる」という感覚だと思う。

巨大なる会いたさのことを東京と思うあたしはわたしと暮らす
いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい
王子なら私がなるね髪型がたやすく変になる今は風

これらは人間の二面性、裏表をあらわしているというよりも、中心を一点に置けない、求心的ではない、という感覚のあらわれのように思う。だからなのか、北山の歌に、一部が透けている、という印象を抱くことは多い。それは歌のモチーフとして「霊」やときには「UFO」まで登場させることとも関係あると思う。これらは世の中の端の透けてる部分にあるものだ。

交差点 炎天 胸に抱きしめる毛蟹ですこし涼しいわたし
ちちははの壊れし婚にしんしんと白樺立てりさむらい立てり
雪と霊読みまちがえて霊の降る街に男の頸を見ている

透けている、という印象に関連してもう一点指摘したいのは、場への適応力の高さである。結社誌のほか、総合誌、同人誌、ユニット、新人賞の候補作、ネット、とくにここ数年はさまざまな場所で活動する北山は、歌人としてはかなり「がんばっ」ているのではないかと思うけれど、北山の作品は媒体によってやや表情がちがう。変幻自在、とまではいわないけれど、それぞれの場の色に染まった連作が提出されていて、たとえば掲出歌が載っているのは北海道を中心とした東北縛りのメンバーによって構成された冊子で、飲食店を紹介するなど、地域性を押しだした冊子である。北海道という土地や、都市部に対する地方、というテーマは北山がもともと扱ってきたものではあるものの、掲出歌も、掲出歌を含む連作も「北海道」っぽさが強調されている。テーマだけでなく、口語と文語のミックス度合いなど、文体の硬度までが媒体によって幅があり、こういった性質はサービス精神というよりもうすこし受け身なもの、いわば場に屈しているようにもみえるのだ。
その柔軟さは作家としては弱点になりうる場合もあるとは思うけれど、歌の異常さとおそらくセットになった性質であることは見逃されるべきではないとも思う。環境に合わせ、媒体に合わせ、定型に合わせ、身をかがめることを厭わないし、それは生きる知恵ともいえるけれど、その知恵を要請してくるものへの疑問は手放されていない。知恵と怒りのグラデーションが文体をつくっている。北山の歌には、ほかの歌人の歌もそうであるように、生きる苦しみが書かれている。地方、性別、貧しさ、どの切り口をとっても辺境にいる、という感覚がつねにある。そういったテーマは作品にとって重要だともいえるし、まったく重要じゃないともいえるけれど、その苦しみをうまく伝達するためにレトリックが尽くされているのではなく、苦しみそのものがレトリックになっているような歌を読むときに、この人の歌はふつうじゃない、と思う。

 

美しい田舎 どんどんブスになる私 墓石屋の望遠鏡/北山あさひ