たちまちに声のみとなり行く鳥のゆふやけぞらの喉ふかくゆく

小島ゆかり『六六魚』(本阿弥書店、2018年)

 


 

今日の一首、いわゆる巧みな歌だと思う。鳥の「喉」と「ゆふやけぞらの喉」がいつのまにか入れ替わる。つまり「鳥」の「声」が「ゆふやけぞら」の「声」に入れ替わる。そこに聞こえている「声」は一種類のはずなのに、もうひとつ別の「声」が一首に登場するように思える。また、「ゆふやけぞら」に「喉」が登場することで、それ以外の器官、すなわち身体の全体が想像されて、そもそもの「ゆふやけぞら」の大きさがさらに拡大してしまうような感じがある。「ゆふやけぞら」が別の「ゆふやけぞら」に入れ替わる。「鳥の姿が見えなくなり、その声はあたかも夕空そのものの声のように思えた」という見立てだけでも「巧み」と言えるのかもしれないが、その見立てを活かすための語法や構成の仕掛けがあらゆるところにあって圧倒される。たとえば、上に「いつのまにか入れ替わる」と言ったが、まず、歌を初句から読んでいってその入れ替わったポイントが語の上には見つからないのである。これは、たとえば「鳥が飛んでいる」→「その鳥は鳴いている」→「鳥の姿が見えなくなった」→「その鳴き声は夕空の喉が発したもののように思えた」というような、「声」の入れ替わりの見立てに至るまでの(自然な)認識や思考の順番が崩れたかたちで表現されているからだろうと思う。「~鳥が行く/ゆふやけぞらの~」というふうには切れないで「行く鳥の」といって下の句へなだらかに(語が、そして「鳥」が)突っ込んでいくことの効果もあろうか。三句目にならなければ「鳥」が登場せず、漠然と「声」のみがまず提示されるところや、「ゆふやけぞらの喉」と言われているだけであって「鳥の喉」は実は鳴き声の存在によってほのめかされるだけで具体的には描写されていないところ、また、同じく「ゆふやけぞらの喉ふかくゆく」と説明される以前の小さいほうの「ゆふやけぞら」は描写されていないところなどにも、その仕掛けはあるはず。にもかかわらず上に記したように入れ替わりと見立ての歌として読めるということ。それからこまかいことのようだけれども、「たちまちに」という初句も、「鳥」の登場を遅らせて見立てに至る理路を見えなくさせるような効果をもたらすとともに、鳥の実体の見えていたところからそれが見えなくなってしまうまでの時間と距離の表現として空間に奥行きを付与しているはずだし、表記が漢字の「行く」からひらがなの「ゆく」へと変化するところも(あくまで「なり、行く」であり、「なりゆく」とは区別をするため、という事情があったにせよ)、実景としての夕空から「喉」をもつ見立ての景としての夕空へと観念化・抽象化されるそのありように、いかにも沿う。「いく」という語がくりかえされるというところには、もちろん単純に、「鳥(の声)」の軌道をすーっと引き伸ばすような効果もあるだろう。それから、景が夕暮れの時間帯であるというのも絶妙で、太陽が沈むようすまでは見えないまでも、いずれ暗くなっていくであろうその時間の経過が、遠ざかっていく声とともに見えてくるのである。

 

それで、いろいろと言ったけれども、この歌、ついには〈痛み〉の表現として現れるのではないかと思う。とがった嘴の「鳥」が声をあげながらその「ふかく」へと、はばたき、侵入していく感じを想像する。「ゆふやけぞらの喉」が痛む。〈痛み〉をもたらしながら、あるいは伴いながら、この「鳥」が向かう先はどこなのだろう、「ゆふやけぞら」は何を訴えているのだろう、ということも思う。