義母のよそうご飯かと思い振り向けば紫陽花白く低く咲きおり

佐伯裕子『感傷生活』(砂子屋書房:2018年)


 

カーテンのすきまから射す光線を手紙かと思って拾おうとした/早坂類
やがて発光するかと思うまで夕べ追いつめられて白猫膨る/永田和宏

 

歌は、〈かと思〉わなくていい。「光線は手紙のようだ」「猫は発光する」などと断定することは詩の表現の上ではゆるされている。それはもちろん言葉の実用的な用法ではないので、日常会話では、あるいは散文では「かと思った」と明記しなくてはいけないとしても、すくなくとも短歌では、作者が〈かと思〉ったことがその表現を生じさせ、読者にも〈かと思〉わせようとしているのは暗黙の了解に含まれている。
〈かと思う〉というのは反語的な表現で、ほんとうはそうではないことを知っている、ということでもある。二物に喩的な関係を結ばせながら、それに反する現実のルールも念押しする。見せ消ちの訂正線を見せ消ちにしているようなものである。その念押しは作者の存在を前に押しだしてくる。表現自体よりも、「そのように感じたひとりの人間がいるのだ」ということが強調される。作者が歌の前に立ちはだかるのは避けられるべきことだし、〈かと思う〉は単純に説明的だという点でも危険な言い回しである。
にもかかわらず、〈かと思う〉の部分を切り詰めると凡庸な歌になってしまう場合はある。ここに挙げた歌は、理由はそれぞれちがうけれどみんなそうだと思う。

 

掲出歌の場合、〈かと思い〉は上句から下句にかけての景色を一変させる引き金になっている。上句〈義母のよそうご飯かと思い〉までを読んで読者が想定するのは室内の光景である。台所、リビング、あるいは旅館などもでいいけれど。だけど、下句に白く咲く〈紫陽花〉を目にして、自分が実が野外にいたことに気づかされるのだ。特殊効果のようにショットを切り替えないまま環境が変わってしまう。
そして、それは〈かと思う〉によって読みの可能性がぐっと狭められ、歌のなかの道がそこだけ細くなっていることによると思う。本来なら一本道の一首の途中で、唐突に作者の事情を経由させられることで、視界が悪くなっている、うちに景色が変わってしまう。
きつねやたぬきに化かされる系の民話で、桃源郷にいたつもりが、正気に戻ったら荒涼とした場所にいた、というような描写がよくあるけれど、それに近い、なにかヒヤッとする感覚がある。

 

「ご飯」と「白い紫陽花」は近くて遠い。イメージが似ているけれど、現実の住所はぜんぜんちがう。言い換えれば、言葉としては近く、物としては遠いということである。この二つの名詞のイメージの重なりを歌の眼目にするには、ちょっと近すぎるくらいだと思う。仮に掲出歌が〈義母のよそうご飯を思う振り向けば紫陽花白く低く咲きおり〉だったら、いわゆる「つきすぎ」だっただろう、ということだ。代わりに〈かと思う〉によって、「物としての遠さ」が最大限に生かされている。
厳密には紫陽花を目撃するのは野外とはかぎらない、生花店だったり、室内に活けられている場合もあるけれど、そもそも「よそわれるご飯」があるべき場所はかなり限られているので、「物としての遠さ」は担保されつづける。そして、単純に「ご飯」ではなく「義母がよそうご飯」というのも不思議な言いかたである。静止画ではなくGIF、という感じ。炊飯器から茶碗への、規模を縮小した橋渡しともいえるこの運動は、この歌が上句から下句へ架けるもののイメージを淡く支えるとともに、「ご飯」を「紫陽花」との喩的関係からははみ出させるものでもある。
唐突にご飯が出現しうるのは、現実の道ではなく人の頭のなかの空間だと思う。人の記憶の道端にはいろいろなものが唐突にごろごろ転がっている。ご飯の横に「それをよそう人」という関連情報が同時に呼び出されるのも、頭のなかで起こることだと思う。
連作を、あるいは歌集を通して読むと作者がこの「義母」を亡くしていることはわかるのだけど、そういう「事実」らしきものよりも、この歌によって「義母」という情報がどれだけアクセスしやすい場所に置かれているかということ、ほとんどバグのようにすぐに呼び出されてしまう近さを鮮烈に体験させられることのほうが読者の印象には残るのではないだろうか。それとしらないあいだに作者の頭のなかを歩かされていたのだ。