足のうらを剝がし剥がしてゆくことを歩くと呼べり生きると呼べり

飯田彩乃『リヴァーサイド』(本阿弥書店、2018年)

 


 

身じろぎもせず横たはるひとの辺に副葬品の眠りをねむる
川沿ひのひかりの中で手から手にペットボトルの光を渡す
曇天をよこめにけさは犬のため無塩のパンを焼きゐる店主
海鳥をあふげば白く反り返るのみどよ喉おまへのことよ
浴槽の栓をゆつくり引き抜けば水とはみづに溺れゆくもの
頰を滑る刃の記憶をとどめつつ林檎みたいにけふは眠るよ
舌に咲く花つぎつぎに吐き出だすひとを思へり味蕾の文字に
いくつかのデスク集ふを島と呼び、けふ島々にゆきかひはなし
デスクトップ背景を海辺に変へて波打ちぎはにファイルを置けり

 

『リヴァーサイド』の前半部分から一部を引用した。一首一首に必ず詩がある。観念をとおしての、主体による発見がある。みずからの視線や動作、心の動き(とそれによる対象の描写)といったところではなく、あくまでも対象そのものが歌の核に据えられる。対象への、観念の力を大いにつかった異化、という感じがある。視線や動作、心の動きは背後にぐっと引っ込んでいる。あるいはまるで見えない。異化の結果としてあらわれた(その異化を導き出した)思考や思想や感情よりも、異化の仕方や視点そのものにまず魅力があって、その異化そのものの魅力のみでぐいぐいと歌を読まされてしまう感じ。しかも、読みにおいてなにかアクロバティックな、読者による詩的な言語操作や思考の整理が必要という感じはあまりなく、飯田の言葉に導かれるままに直感的にその世界に浸れるようなところがある。

 

見立ての力のつよさ、その簡潔なありように目を瞠る。一首目、「副葬品」という一語によってのみその場面の雰囲気や「横たはるひと」との関係を十二分に提示している。二首目、「手から手に」の動きと「光」が印象的でありながら、それは抽象化され、「手」ということのもつ象徴性こそが一首をたちまちに包み込む。三首目、「犬のため無塩のパンを」はそれだけで物語の予感を引き連れている。そしてその具体的な内容に踏み込まないまま、そこに物語があるのだろう、ということのみをもって一首を成り立たせている。「曇天」であることがじわじわと効いてくる。七首目、歌集のなかでも、ちょっとおぞましいような印象を、特に与える一首だと思う。ただこれも、歌の作りとしてはわかりやすく、「味蕾」という字から「思った」ことをまさに述べただけ。あるひとつの、そのおぞましい光景を撮影した動画が、歌のなかでくりかえしくりかえし再生される。さまざまなバリエーションをもって対象が異化され、異化としての物語も提示されるが、読者として負荷をかけられているという感じはほとんどなかった。あらかじめ作者のほうで対象をていねいに処理してくれている、という感じ。

 

では飯田の歌のことばのいかなる構成・仕組みが上に記したような特徴を引き連れてくるのか、というところなのだが、それがやたらと複雑で、説明がむずかしい。そのへんをすっ飛ばして言えば、少なくとも、たとえば上に挙げた四首目、「海鳥をあふげば白く反り返るのみどよ喉」からなんらかの思考や感情に移行せず「おまへのことよ」と言ってあくまでもその「のみど」にとどまっている、五首目、「水」以外のものへと視線をそらさない、八首目、デスクの集まりを「島」と呼ぶそのオフィス用語を歌に固定してからはその先へと過剰に展開しない、というように、一首のイメージはゆたかでありながら、対象から詩を掘り起こしたり広げたりすることよりも、ある一点に〈踏みとどまる〉ということをもって一首を成り立たせているのだろうな、ということはなんとなく言えそうだ。

 

広げたり深めたりという方向への詩の力をあきらかに感じるのに(だからこそそれが「詩」として魅力的なのに)、飯田の歌の場合、それを支えているのはその真逆の力なのではないか、ということ。

 

感情をあなたに言へば感情はわたしのものになつてしまふよ
照らされて輝(て)るレシートにわたくしのけふの命の値段を知りぬ
言ひかけて閉ざす唇わたしとはわたしの心の棺に過ぎず
伸ばせども伸ばせども空に届かないグラジオラスのあかるい力
耳底でいつまでも鳴いてゐる蟬を追つてはいけない そこへ行つては

※( )内はルビ

 

〈踏みとどまる〉というその、詩そのものを形作る力とは別に、まさに「追つてはいけない」というように、内容面において「踏みとどまる」ということを見せるとき、生きるということへのある箴言のようなたたずまいがそこに表出される場合がある。自分の感情をあなたに言わないこと、レシートの値段以上(あるいは以下)へと「命」の価値を定義づけないこと、棺に「過ぎず」、と認識すること、限りなく伸びていくかのような「グラジオラス」の無邪気さに「届かない」を見い出すこと、つまり、それ以上踏み込まない、という内容が、「生きる」ということへの思考をうながす。歌のなかの「展開させない眼差し」が、こちらの思考を展開させる。これらの歌はこの歌集において、生きるということの深淵を不意に、ふかく覗き込ませるような力をもっているように思う。

 

今日の一首、足裏を「剝がし剥がして」ということの困難やためらいや断念、痛みが、おどろくほど真剣で、しかも諦念に溢れかえったような雰囲気をまとってそこにある。「呼べり」のくりかえしが、自らに言い聞かせるような、それがなにかのための確認であるかのような印象をもたらす。単純化と一般化によって定義され、ただただ観念的に述べられた「生きる」が、この歌集において不意なる淵となって、こちらの思考をうながす。読者としてみずからの「生きる」を参照したくなる。

 

異化そのものに身を任せていればよかったはずの『リヴァーサイド』において、これらの歌に出合うとき、そのつど、もういちどはじめからこの歌集を読まなければならないような気持ちになった。「異化そのもの」にとどまってよかったのか、その先があったのではないかと、ほかの歌をもういちど確かめたくなるのだ。