永井 祐


秋かぜに靡く山路のすすきの穂みつつ来にけり君がいほりに

良寛『良寛和歌集』

 

良寛は書が有名なんですけど、独特の書を残しています。
庶民に心を開いてもらうために、わざと下手に書く練習をしたそうです。
画像検索しただけですが、見てみると、けっこう異様です。ほんとに下手みたいな字で書いてある。そして読みやすい。
当時の学のない民の中に入るために敷居を下げようとしたそうですが、「寺のヒエラルキーの中で偉くなるとかじゃねえ」みたいな、本気感はわかる気がしました。

前回半端に終ったので続きを。

 

秋の日に光りかがやくすすきの穂ここの高屋にのぼりて見れば

 

この歌でした。
斎藤茂吉はこの歌にけっこういろんなことを言っている。

 

同じ技巧家でも定家ぐらいの程度の技巧家ならば、決して此様な言い張りでは承知が出来ないに相違ない。良寛のは平気でやって居て定家などの以上に抜けている。
(旧仮名遣いは読みやすいように新仮名遣いに直しています。)

 

「此様な言い張り」とは、前回みたように主に下句のこと。
この下句は「高いところにのぼって見たら~」ということなので、たしかになんとなくとぼけたような感じがあるのかもしれない。韻律にもおおらか感はあるような気がします。
藤原定家がディスられていますが、そこはともかく、
茂吉は良寛の歌に、技巧を消す技巧を見ようとしているみたいです。何でもないような感じに見えるけど、それは研ぎ澄まされているんだよ、技巧家として知られる定家以上に技巧家なんだよということを言っていく。

歌を変えて今日の歌に。
山道のすすきの穂を見たりしながら歩いて君のいおりに遊びに来たよー、という歌かと思います。
うーん、この「みつつ来にけり」のさりげなさ、嫌味のなさはわたしもわかる気がします。茂吉は今度は次のように言う。

 

「みつつ来にけり」という様な處を作者は何となく得意でいるのだから興味がある。そうして其が如何にも生真面目に出ているのだから猶更おもしろい。

 

「如何にも生真面目に出ている」。これの場合は、技巧を消す技巧を強調するより良寛の持っている自然な嫌味のなさを強調する。そして良寛の別の歌をあげて比較する。

 

秋やまに咲きたる花をかぞへつつこれのとぼそにたどり来にけり

 

「とぼそ」とは扉、戸のこと。庵などの扉でしょう。
先の歌との類似はあきらか。一方は「花をかぞへつつ」一方は「すすきの穂みつつ」、君のところにたどりついた歌。
そして、花の歌は、

 

この歌の方が作意が秀に立ち過ぎた為め、普通の歌人の歌と同じ悪道に堕して仕舞ったのである。

 

「花をかぞへつつ」は作為が立ち過ぎてわざとらしく、凡庸になってしまっている。
「すすきの穂」の方がいい。この比較はわたしもそう思います。
作為/自然、言葉/心のバランスの話。一首を見るときに、この軸あるなあと思います。