春山の草のくぼみに忘れたるつるぎを搜し一生(ひとよ)は過ぎつ

前登志夫『大空の干瀨』(2009)

 

 

 たった31音でありながら、これだけの長大な時間を描けるのが短歌だ。

 この時間軸の長さは、(自動車を運転して都会に出たりしつつも)吉野の山に包まれて暮らしたという作者の伸縮する時間感覚のゆえであろう。

 

 言葉が生き物のようにリアリティを持ち、現実をひっくり返すような力。こういう光景はもうリアリティがないはずなのに、言葉上の底力のみで詩を成立させてしまう力だ。

 

 ツルギを忘れたのは子供のころか、青年のころか。ケンでなくカタナでなく、ツルギと言ったところが古代を思わせていい。

 そして、人生は一直線に、そのツルギを捜すためだけに費やされたという。その膨大な時間の量の提示に驚く。

 

 なんで、そんな内容が説得力をもって伝わるのか。もちろん、上句の茫洋とした歌いだしの魔術にかかっているはずだ。結句の「つ」の勢いにも押される。

 だが、よくわからない。それを定型の魔力と呼ぶのかもしれない。

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