蓋つきの湯呑みでお茶を出されたりわれにではなくわれの会社に

藤島秀憲『二丁目通信』ながらみ書房,2009年

仕事での訪問先で「蓋つきの湯呑み」でお茶が出された。丁寧で、いくらか仰々しい対応だ。(丁寧だなあ)と思うだけ思ってそのまま忘れてしまいそうな場面だが、主体は下句の感慨を得る。

確かに、その場面でお茶を出されているのは剥き出しの私ではなく、その会社に属している私だろう。その会社に属している限りは、相手先の担当者が変わっても、丁寧な対応をされる可能性が高い。しかし、私がその会社を辞めてしまえば、丁寧な対応はなされない。馴染みの担当者がいれば話くらいはできるかもしれないが、担当者が変わればそうはいかない。「蓋つきの湯呑み」など、出てくることはないだろう。

それは当たり前だが、普段はあまり意識しないことだ。自分は交換可能な歯車に過ぎないというのはいい古された言説だけれども、それを直視しながら働くのはなかなかにむなしい。もちろん、わかっていることではあるが、どこか奥底にとじこめて蓋をしている。主体は「蓋つきの湯呑み」という丁寧な対応によって、それを実感した。その実感はとてもシニカルで、苦しいものだ。

二年分の私物のつまる袋下げ出所のごとく社を去るわれは/藤島秀憲『二丁目通信』
ふっくりと河馬のかたちの雲浮く日ハローワークに行くのはやめる

歌集では、掲出歌のいくつか後の連作にこのような歌が配されていて、主体が会社をは辞めたことが想像される。振り返って一首を読めば、その会社を辞めるという決意が掲出歌の感慨を導き出したのかとも思える。
ただ、「蓋付きの湯呑み」からそれを実感できる人は決して多くはないように思う。トリガーとしての「蓋付きの湯呑み」はあまりにささやかだ。

それでも、ささやかであるがゆえに、余計に強く感じられたのだろう。家でお茶を淹れるときに蓋付きの湯呑みはあまり用いない。来客として丁寧に対応されることなど、日常ではあまりない。

サラリーマンの日常と非日常の境界を鋭く捉えた一首だと思う。

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