焼け跡を歩きて溶ける靴底の臭いは想像できる できるか

吉川 宏志 『雪の偶然』(現代短歌社 2023年)

 

 私たちには想像力がある。それは人間を人間たらしめている大切な力である。 想像力があるから様々なものを創り出せたし、他者の心を慮ろうともしてきた。

 だが、想像力は万能ではない。現実のすさまじさが想像の世界を遥かに超える、そういう場面がたくさんある。壮絶な現実の前で「想像力」の無力さを痛感する、そんな場面もしばしばある。

 それでも、思い描くことで、そこにいくらかでも近付けはしないだろうか、痛みを自分のものとしながら。これは、そんな願いに真摯に向き合う一首である。

 

 前後の歌から、「焼け跡」は空爆のあったウクライナの地を指していることがわかる。

 今、その場所に行くことはできない。だから、想像する。だが、その惨状をリアルに、身に添うほどにイメージするのは難しい。

 ならば、何なら想像できるか。いろいろな可能性を退けながら、行き着いたのが、「焼け跡を歩きて溶ける靴底の臭い」なのである。

 「臭いは」の「は」は、想像するのが困難で、断念せざるをえなかった他の要素の存在を示している。その中にあって、溶ける靴底の臭いは、つまりはゴムやプラスチックの焼ける臭いであるから、想像できそうに思われたのだ。この日本でも嗅いできた、覚えのある臭いであったから。

 それで言い切る、「想像できる」と。

 

 しかし、言い切った後に、誰か  それは、自分? 焼け跡に在る人? より根源的なところからの声?   が訊ねる。「できるか」ということを。

 そうして、再び、より厳密に考えてみれば、靴底の臭いすら想像しきれない可能性が意識されてくる。外国の、戦地の、切迫した状況下で感じる臭いは、自分が思い描く「臭い」にどれだけ近いのかと。

 ならば、一体何なら想像できるのか。想像力とは何か。

 

  AすらカツB、況んやCをや。

 

 「焼け跡を歩いて溶ける靴底の臭い」でさえ想像できるかわからない。ましてや、【 C 】は。

 【 C 】の中に入るだろうもの  たとえば、瓦礫の散乱した広場の静けさ、焼け焦げた建物の色、町が壊されていく絶望感、大切な人を失った衝撃、いつ死ぬかわからない恐怖……。数々のそれらの存在が、「は」の一語の向こうでうごめいている。「は」が抑揚の構文の役割を一文字で担っていた。本当は「は」の奥のところまで届きたい。けれど、このあまりの現実は。

 

 「できる  できるか」は敬虔な問いである。それは、安易にわかったつもりになることへの警告であり、困難でも想像する道を選び進むための、おずおずとした確認でもある。

 

 問いながら、ゆくしかないのだろう。

 

 「できるか」は、現代社会を生きる私たちみなへのシャープな問いでもある。

 簡単に「できる」とは言えない。だが、「できない」と言って終わりにはしたくない。

 そのあわいを幾度も揺れながら、ゆくしかないのだろう。

 

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