魚村 晋太郎


汗香る髪はいつしか雨となる雨のむかうに灯る紫陽花

高島裕『雨を聴く』(2003年)

アジサイは日本原産の花で、万葉集にも二首詠まれている。
古くからあったのはガクアジサイで、密集した目立たない小さな花のまわりに、萼の変形した装飾花がつく。現在多く植えられている球状のアジサイはセイヨウアジサイで、すべての花が装飾花に変化するように改良されたものが逆輸入されたものだ。
紫陽花、の表記は平安時代に源順が白居易の詩から引用してあてたものだが、白居易の指したのは別の植物だったといわれている。

汗臭い、といって嫌われる汗のにおいだが、それはすこし時間がたってからのことで、流れる汗の香りはふつうそんなに嫌なものではない。
愛するひとの汗、愛しあっているときに素肌を流れる汗はことさら美しくいとおしい。

芳しく汗の香る恋人の髪。
それが、雨となる、というのは浄化のイメージだ。
相手の肌の匂い、汗の匂いは、たかぶった気持ちをさらに刺激するが、汗にまみれて愛しあっているうちにその匂いも、主人公の熱情もだんだんと透明にちかづいてゆく。

何度抱いても足りないと思うほどつよく相手を求める気持ちが、満たされてひいてゆくときの自意識がとけてゆくような恍惚。
はげしく求め合う行為と、そのあとのしずかな抱擁の、どちらが愛の本質にふれているかと問うことは無意味だろう。
雨にゆれる紫陽花は香りのしない花。
性愛の波のひいてゆくとき、身のうちに消え残る熱情の芯のようなものを、一首の紫陽花はなんとうつくしく灯していることか。