桑原正紀『天意』(2010)
七夕の歌はなかったかと本棚をあちこちひっくり返している途中、ふと『桑原正紀歌集』に手が伸びたのは、そこに収録されている『妻へ。千年待たむ』(2008)という歌集のタイトルが、どことなく七夕めいていたからかもしれないし、『妻へ。千年待たむ』や『天意』を、近年稀に見る愛の歌集として記憶していたからかもしれない。
『妻へ。千年待たむ』の長い前書きにあるように、桑原正紀の妻は56歳の時に脳動脈瘤破裂で倒れた。意識不明の状態をようやく脱した後、薄目を開け、頷いて意志表示ができるようになり、八ヶ月目に声を発し、車椅子に乗れるようになり……と、「蟻の歩みのようなペース」で回復していく。
かかる夜をふと覚醒し闇に目をみひらきてゐる妻にあらずや
『妻へ。千年待たむ』
妻の顔にまつはれる蚊を手で払ふのみにて叩くことをせざりき
立つたまま妻抱きをればダンスすると思ひけるにや「音楽ハ?」と訊く
われに積み妻に積まざる時間といふもの何ならむ季(とき)めぐりゆく 『天意』
わが手柄ならねど妻に「ほら、見ろ」と自慢げに指す花のうねりを
時系列に沿って引用した。
「積まざる時間」という言葉が示す通り、妻は、古い記憶は残っているが新しい記憶を留めることのできない状態にあり、会話のつじつまが合わないこともしばしばだ。「われ」だけが時間を積み重ねていくのか、という思いに時として囚われながらも、夫は妻に疲れた顔を見せることなく、季節と共に巡る「われら」の時間を、着実に積み重ねていく。
マンホールの歌は、車椅子の妻を連れて外出した際の一場面。何げないスケッチのようだが、「川なの?」という問いかけに、彼女の生きる「現在」が凝縮されているようで、とても尊いものを見せてもらったような気持ちになった。
妻の小さな呟きを拾い上げ、慈しむように一首にまとめあげた夫の優しさにも、胸を打たれるのである。
雨後の空にかかれるおほきおほき虹 妻よこの世はまだ美しい
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