エスカレーターいったん平たくなるところわりと長くて歩きだすところ

斉藤斎藤(『歌壇』2012年4月号)

 

素晴らしいと噂に聞いていた川内倫子展「照度 あめつち 影を見る」を見に行ったら本当に素晴らしくて、東京周辺にお住まいでまだ展示を見ていない方は明日にでも東京都写真美術館へ走っていただきたいのだが(7月16日まで!)、特に印象的だったのは、「Illuminance」というシリーズのビデオ・インスタレーションだった。2つの画面に次々と映し出される映像――雷鳴や花火の光、日盛りでひっくり返る昆虫や、水を汲む男の子、大きなシャボン玉が弾けていくところ、などなど――は、不思議なことに、一個人が撮りためた映像という感じが全くしない。それぞれ別の人が見た別の世界を無数につなぎ合わせているようでもあり、そのくせ、デジャヴめいた懐かしさもある。私にこの展示を勧めたくれた友は、「インスタレーションを見ている間、10回ぐらい死んで生き返る感じを味わえる」と言い表していて、なるほどなーと思ったのだった。

 

川内倫子とは直接関係ないのだけれど、時間のことや生死のことをつらつら考えているうちに斉藤斎藤のことを思い出したので、今日は斉藤斎藤のことを書く。

この歌は、30首の連作「死ぬと町」の中の一首。「死ぬと町」というタイトルからして、なんだかよくわからない。「死ぬ」ことと「町」のこと、という意味なのか、それとも「(~が)死ぬと町(は)~」「(~が)死ぬと町(に)~」といった文章の一部を切り取っているのか。どちらにせよ、奇妙な宙吊り感のある「と」だ。

エスカレーターの歌では、「ところ」にムズムズする。一回目の「ところ」は単に、ある地点(長いエスカレーターの中間辺りにある、あの平らな部分)を指しているように見えるが、二回目の「ところ」はどうだろうか。単に一回目の「ところ」のリフレインのようにも読めるけれど、「今まさに歩きだすところだ」という、「時点」を表しているようにも見える(というか、自然とそちらで読む人が多いのではないか)。

前者の解釈だと、歌の語りは〈一般論〉の立ち位置をキープするが、後者の解釈だと、「今、エスカレーターに乗っているわたし」が(騙し絵の中から突如として人の像が浮かび上がるように)出現することになる。

そして、この歌の面白さは、そのどちらにでも読むことができる、というところにあるのではないか、と私は思う。

同じく『歌壇』4月号で、島田幸典は斉藤斎藤の歌集『渡辺のわたし』の「お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする」などを挙げ、「本来名字(固有名詞)は他とは異なる特定の人を指示するために用いられるが、ここでは実質において匿名に近い機能を果たしている」と書いている。しかし、『渡辺のわたし』の「わたし」以上に、この歌の「わたし」は危ういところに立たされている。〈一般論〉に今にも紛れて消えてしまいそうな、半透明の「わたし」。

 

さて、紙幅は尽きないが持ち時間が尽きてしまったので、唐突にここで終わって、明後日に続きます。

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