くれなゐの薔薇(ばら)のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな

                      与謝野晶子『みだれ髪』(1901年)

 晶子の代表歌集であり、近代短歌を代表する歌集である『みだれ髪』より。しばしば指摘されることであるが、『みだれ髪』はなかなかに読みにくい歌集でもある。この歌では『薔薇のかさねの唇』の「の」が破格の用法であろう。くれない色の薔薇を重ねたような唇ということであり、「ような」を補って詠むと良いのだろうが、通常では無理のある語法である。そして、このような「の」の用法は晶子には多く、誤りというよりもむしろ初期の晶子の文体になっている。下の句の「霊の香」もその実態は掴みづらい言葉である。「霊」とは何だろう、幽霊?霊魂?東洋的なものなのか西洋的なものなのか?「霊の香」という言葉だけでは読者はその実を把握することはむつかしい。おそらく人間を超越した存在くらいに捉えるのがよく、薔薇のような唇に空疎な言葉の歌を載せるなということであろう。空疎ではない情熱的な言葉の渇望がこの歌の主題であるように思われるが、晶子自身の何かを突き抜けたいという情熱と、「霊の香」という言葉の観念性の間にはおそらくかなりのギャップがある。言葉を突き詰めるよりも自身の内なる情熱を歌うという行為そのもののほうにウエイトがかかっており、表現としては過渡的なものもある。初期の晶子には気持ちに言葉か追いついて行かなかったり、逆に言葉のほうが突き抜けてしまって晶子の心との間にギャップがあったりすることがしばしばあるように思うが、それもまたおもしろい。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 一首のテーマとしては、先の引用歌と似ている。「やは肌のあつき血汐という」人の情熱や本質に触れてもみないでさびしくはないのですかと訴える。あくまでも情熱主義?の晶子であるが、この歌では言葉がかなり整理されており、通釈しやすくなっている。それゆえか、今日教科書にも掲載され愛唱歌となっているのである。一方で、語法までが混乱して定型に負荷をかけている先のような歌も私には魅力的であり、浪漫主義期の歌人の言葉への向かい方と試行が見えてきて俄然おもしろかったりするのである。

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