石川 美南


栗茸(クリタケ)のごと月光に濡れながら造成地の道帰りてきたり

早川志織『クルミの中』(2004)

 

仕事の日程確認のために電話をしていた取引先のJさんが、用件が終わった後ふいに声のトーンを変えて、「そういえば、新宿マルイの8階で石川さんが好きそうなペンを見かけましたよ」と教えてくれた。聞けば、キノコそっくりの形をしたボールペンだという(Jさんは、私がキノコ好きであり、キノコグッズをちょこちょこ集めていることを知っている)。最近忙しくてなかなか森でキノコを探したりできないが、新宿ならば行ける。新宿で歌会があった帰り、マルイに立ち寄った。キュウリやらニンニクやらの形をしたペンに交ざって並んでいるキノコペンは、なかなかの再現度で嬉しくなる(適当に水玉模様を施したなんちゃってキノコでなく、図鑑からそのまま出てきたようなリアルなキノコにより心惹かれるたちなのだ)。数本買い求め、ほくほくしながら外へ出て、隣の伊勢丹のショーウィンドウに何気なく目をやると、スタイリッシュなマネキンの周りに巨大なキノコのオブジェがにょきにょき生えていて、軽く度肝を抜かれた。新宿は今、キノコだらけだ。

という訳で、これから数回、キノコの季節にぴったりのキノコ短歌を取り上げていきたい。

 

クリタケは食用のキノコ。栽培種もあるので目にした人も多いと思うが、野生では晩秋に近い時期、広葉樹の倒木などの上に群生する。つやつやした栗色の丸い傘、まっすぐな柄、いかにもキノコらしい形をしたキノコといえるかもしれない。

ここでは、「造成地」という言葉が効いている。住宅地にするために均され、荒々しい自然は目に付かないところに追いやられている土地。まっすぐに整備された道路を歩き、画一的な規格で建てられた家に帰宅する。けれども、語り手はそんな場所にも、自然の気配が秘かに息づいていることを感じ取っている。少なくとも語り手の身体の中には、森の養分をたっぷり吸ったキノコのように、生々しいエネルギーが充満しているのだ。

 

  三人は丸いきのこの家族にて荷物すくなくこの町に住む

 

「栗茸」の歌に比べて、こちらは擬人化の度合いが少し強い。小さくてまんまるいキノコたちが肩を寄せ合って群生している様子が思い浮かぶ。造成地に作られたのであろう「この町」に親戚縁者はなく、家族は互いに寄り添い合うしかない。都会に住む家族の心細さが、じんわりと滲んでいる歌だ。

早川志織はキノコだけでなく、動植物の特徴をつかんで比喩に用いるのが本当にうまい。植物の名前が効いている歌を、3首引いておく。

 

  いつかあなたを埋めてしまおうと思っていた夏の空き地のアレチギシギシ

  さよならのあれは掌(て)なのか 夕かげのポストの脇に座るハマユウ

  カチカチとユリノキの実が鳴る真昼 どこかに見えない記録者がいる

 

 

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