『和漢朗詠集』
「うちつけに」は何ともなしにの意。何とはなしにかなしい気分が湧いてきた。木の葉がちる秋のはじめへと季節が移行したとすると。歌の大意はこんなところだろうか。
この歌では、まだ木の葉は散っていないのだと思う。おそらく立秋あたり、まだ暑さの残る時期の作ではないだろうか。木の葉が散るであろう秋の到来を、その入口のところで意識で先取りしてかなしんでいるのである。秋の訪れを身体の感覚を澄まして感知するのではなく、意識で暦どおりの季節の変化を尊び、かなしんでいると言えよう。
現代の私たちの目からすると、風流に過ぎるとか、体で感じた一回性の表現をというような批評もでるかもしれない。しかしながら、このように暦どおりに季節は回ってゆくのだという確信の裏には、季節や時の移行はどうしようもないものであり、人間はそれに流されてゆくしかないのだという、諦念の感覚もあると思う。古典和歌の詠み方として正しいかどうかは分からないが、そういうところに古典における人間の影を見てみたいとも思ったりする。
秋はなほ夕まぐれこそただならぬ荻の上風萩の下露
同じく『和漢朗詠集』の秋の歌より。「荻の上風萩の下露」はリズムもよく対としても優れており、印象的なフレーズだ。洗練に洗練を重ねて残った言葉という感じがする。「ただならぬ」は、秋の夕暮れがただならず身にしみて感じられるということだろうが、ここにうすくであるが、歌の作者の心の揺れが出ているように思う。