斎藤すみ子『梅園坂』(2004年)
闇には、さまざまなものが潜んでいる。人の五感では捉えられない、しかし確かに存在するものたち。それらは、ときに優しく、ときに激しく、私たちに接近してくる。
眠るまでの、そして眠りのあいだの闇は穏やかであってほしい。しかし、斎藤すみ子は、「寝る前のしどろの闇」とことばにする。ことばは力をもっている。「しどろの闇」とことばにすれば、「しどろの闇」がかたちになってしまう。
その闇の弾力は、押し返してくる勢いをもっているという。「押し返しくる」ではなく、「押し返しくるいきほひ持てり」と描写されていることに留意したい。斎藤は、しどろの闇の勢いと向き合っているのだ。しどろの闇。それは、自らが抱えた闇だろう。だからこそ、ことばにして、かたちにするのだ。そう、自らが抱えた闇と向き合うために。
坂の上に坂を重ねてゆふぐれは数多寺院の鐘ひびきあふ
をどれる葉わらふ葉われと共に濡れただ一度なる世のひとつとき
使ひ古りしにんげんの骨一本が折るるたまゆら音小さかり
一首目。「坂の上に坂を重ねて」。巧みな描写だ。おそらく、途中で緩やかになる坂のさまを、こう捉えたのだろう。ゆうぐれは、昼から夜へ向かう時間帯。響きあう数多の鐘は、私たちになにを届けているのか。二首目。「をどれる葉わらふ葉」。葉もさまざまな様態を見せてくれる。それが「われ」と過ごすただ一度のできごとだから。三首目。折れたのは自身の骨。「音小さかり」。自らのなかに聞こえたはずの音は、しかしきっと遠くから聞こえてきたのだと思う。
斎藤は、この世とこの世ではないところを結ぶ、そんな場所に立っている。そこは危うい場所、不思議な力が現象する場所。だからこそ、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる。斎藤はそんな場所に立っている。自らが抱えた闇を、この世とこの世ではないところを往復させながら浄化させるために。
膝の震へ隠しおほせり電話なれば顔のみえねば芯坐りきて
ひとひらの匙にてやはらかきもの掬ふ君に隣れば嚥下は必死
身を捩(よぢ)て捕ふるはわがものいひか難聴は左に極まるものを
寄る影を排除なしつつ男子(をのこご)の三十余キロとなりたまひたり
陶質の柿の葉紅葉 かの耳に血膿垂れゐしかなしみかへる
『梅園坂』は、春日井建追悼の作品を収めた一冊でもある。
編集部より:上記歌集も収録されている『斎藤すみ子歌集』はこちら↓
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