吉野 裕之


救急車のサイレンに二つの表情あり近づく不安離(さか)る哀感

岩田 正『泡も一途』(2005年)

 

救急車といえばドップラー効果。ドップラー効果といえば救急車。ドップラー効果ということばを知ったのは、中学校の理科の時間だっただろうか。それ以来、私はこう思っている。消防車でもパトカーでもよいのだけれど、なぜか救急車なのだ。

ちょっと知識を披露すれば、ドップラー効果とは、音波や電磁波などの波の発生源と観測者との相対的な速度によって、波の周波数が異なって観測される現象のこと。発生源が近づく場合には波の振動が詰められて周波数が高くなり、逆に遠ざかる場合には振動が伸ばされて低くなる。だから、救急車のサイレンが通り過ぎるとき、近づくときには高く聞こえ、遠ざかる時には低く聞こえるのである。

岩田正は、それを「近づく不安離(さか)る哀感」という。ああ、と思う。こどもの頃、救急車のサイレンが通過するときに音が変わることが不思議で仕方なかった。たまたまぼくの前を通るときに音を変えたんだ、と思っていた時期もあったが、それはおかしい、と気づく。おかしいけれど、でも、ほんとうのことはわからないので、もしかしたら、いつもぼくの前を通るときに変わるのかもしれない、もしそうならすごいことだ、と思ったり…。

むろんその頃は、不安とか哀感とかいったことばで、自らの、あるいは人の感情を把握することはできないわけで、しかしこうした概念はもっていなくても、なんだかぞわぞわするような感じはいつもあって、それはドップラー効果ということばを知ったあとも変わらずあって、そしていまでもあって、この一首を受け止めているのである。ああ、と思うのである。

 

川沿ひのアパート住まひの夕べ夕べトランペットの鳴つてゐた空

ナイフならぬのど飴の感触しのばせてわがポケットも平和なりけり

こゑのみでひとのかなしさ知る茶房背中あはせの顔は見えねど

半分は眠つてゐるけどページだけきちんとめくる電車の中で

さよならといふ語むかしは愛らしくいまは悲しくきこえくるのみ

橋より身投げし瞬時はまだ生きていると思へば慄然とせり

陸橋に嗅ぐ街の風四季の風あるいは戦火のにほひを嗅げり

仕事にも妻にもむきになりし父将棋に負けてくれしことなし

こいつめといふ気で車内のポスターの悪徳議員の顔と戦ふ

隣家の犬ある夜吠えぬに気づきたりいのちは人の知らぬ間に消ゆ

 

生活者の実感をうまく掬い取った作品、というより、実感そのものといったほうが正確だろう。それはとてもささやかだけど、確かに訪れているもの。だから読者は、これらの作品に引きつけられていく。

一冊には、こうした作品がたくさんある。ときにユーモアをまじえながら、しかしどの作品にも読者の心に静かに届くある感情がある。人は組織や集団、あるいは地域社会のなかで生きているけれど、いうまでもなく、それらから離れ、自己と直接向かう時間ももつ。その時間から何を得るか、得ることができるのか。そんなことを考えさせてくれる作品たちだ。