吉野 裕之


伏せ置ける棚の茶碗のなかの闇茶碗の外の闇と異なる

五所美子『和布刈(めかり)』(2008年)

 

食器棚の茶碗は、確かに伏せて置かれている。むろんすべての家でそうしているわけではないだろうが、この一首に向き合いながらふと思うと、そうだという気がしてくる。

茶碗が闇を抱くように、伏せて置くのだろうか。ご飯茶碗ならご飯をよそい、湯呑茶碗ならお茶を注ぐ。使わないときは、ご飯の代わりに、お茶の代わりに闇を抱かせておく。なんだか不思議な気持ちになってくる。

ご飯を食べる、お茶を飲むというのは、飲食のなかでももっとも基本的なことがら。茶碗は、私たちにとってとても大切な器だ。だから、闇を抱かせるのだろう。闇とは光のない状態。闇と光。それはたとえば、死と生、悪と善といった概念をイメージさせる。つまり、闇とは死、闇とは悪。しかしそれは、生を、善を内包している。可能性がまだ形になっていない状態といってもいいかもしれない。

私たちは、自らの、そして生活をともにする人たちのために、茶碗に闇を抱かせるのだろう。「茶碗の外の闇と異なる」。茶碗は属人器である。ひとりひとりのために、闇=可能性はそこにある。

 

人の手と風の手ありてのぼりゆく凧は時折頭(かぶり)ふりつつ

ふわふわと笛を鳴らして岬より消防自動車戻りくるらし

噛み合わせ悪くなりたるわれは来て口を開きぬ歯科医の椅子に

錆もてる鋏ふたつがテーブルにありて日暮の雨降りいでぬ

遠出(とおで)など控えて夏の予定表姑(はは)に来る死を待ちいるごとし

部屋ふかく脚差し入れていし夕日消えて七階冷えゆく速し

吊り上げて投げ打ち返す土俵際もつるる足の鶴の足首

 

31音でありながら、それ以上の厚みを感じる、そんな作品たち。五所美子は、そんな作品を紡いでいく。

ことばの働き。そうといってしまえば、それは当たり前のことかもしれない。しかし、働かせるということは、けっしてやさしいことではない。一首を一首として、作者の等身大で立たせることと理解すれば、よくわかるだろう。そして、厚みをもちながら透明。比喩的な言い方だが、だから五所の作品は、読者に負担をかけない。

 

編集部より:五所美子歌集『和布刈』はこちら↓

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