朝霧す庭の片隅にうづくまり淋しき人は花の苗植う

『白木槿』原阿佐緒

見る、聞く、触れる……といった五感があり、またいっぽうでは喜怒哀楽という感情や世界にたいする認識がある。単純に五感というインプットを受けて、感情というアウトプットがうまれるとみなすこともできなくはない。しかしこのごく素朴なモデルは実感にあまりそぐわない。

場面は朝の霧に包まれている。庭の片隅、という場所の指定があり、うずくまるという動作が見えている。淋しさは誰に生じたものだろう。続く歌を読めば、このときうずくまっているのはこの人(阿佐緒)じしんであることがわかる。

朝の霧花を植うると土を揉むわがたなぞこに土の冷めたさ

掲出歌もやはり、「淋しき人」、庭の片隅にうずくまっているのは、直感的にはこの人じしんであるのだろうと感じられる。ただ、文の内容としては、あくまで庭の片隅にだれか別の人がおり、その人を背後から見つめているとしかとれない。視点は「淋しき人」の外にあり、うずくまっている様子をみて、淋しそうだ、その人には淋しい背景があるのだと何かの感情を想像しトレースするところが歌の起点になっている。たしかに、うずくまる動作と淋しさがダイレクトに結びつくのは、他者を見ている場合であって、自身がうずくまっているときには、淋しさや悲しみといった澄んだ状態にろ過される前の、散らかった苦悩しか感じられないのではないか。自分のことを「淋しき人」と名指しするのは、他人行儀でどこかおかしい。

だが、苦悩を経た淋しさを醒めたまなざしで見ている感覚、感情を第三者的にみつめる状態は、とても覚えのあるものだ。文意としては破綻していても、感情としてはごく自然な状態に置かれているようにみえる。たとえるなら、うずくまる、という状態が朝の霧にあり、実際に歌が書かれたのは、昼下がりや夜や、翌日であったのかもしれない。「朝霧の」ではなく、「朝霧す」と、時間が動的に書きこまれてもいるようだ。現実の身体がうずくまった時間と、テクストの時間とは、それぞれ独立して歌の中に流れている。それならば納得がゆく。庭でうずくまっているのがこの人じしんであり、その背を見つめているのも、やはりこの人じしんである。両者には少しだけ時間の隔たりがある。そのわずかな時間のなかで、苦悩は静かに沈殿し、淋しさという成分が分離する。その分離した層の両方を見つめるまなざしもまた、かすかであるが歌の中に存在している。うずくまるという動作は花の苗を植えるためのものであった、というささやかな種明かしが結句で行われる。弱々しくもみずみずしい苗や根のしっとりとした手触り。苗を植える人の手を覆うように、歌を書きつける手はそっと添えられている。