藤原龍一郎『夢見る頃を過ぎても』(邑書林:1989年)
(☜4月17日(月)「人から見た自分 (10)」より続く)
◆ 人から見た自分 (11)
「業界の人の逆襲」と題された連作より引いた。歌集やあとがきからAMラジオ局のディレクターとして勤めるなかでの一首であることが分かる。
「藤原さん」ではなく「フジワラちゃん」と呼ばれることに、どうにもむずむずしたものを感じるが、業界の慣習、あるいは、それこそが業界を業界たらしめているものとして受け入れる。業界に染まりきるわけでもなく、かといって業界に反発するわけでもない作者の立ち位置が、場の雰囲気を「なまぬるき業界の風」と感じさせるのであろう。
「フジワラちゃん」というのは特にあだ名でもニックネームでもないが、カタカナで書かれることによって「藤原」ではないことが強調されている。カタカナの尖った見た目からも、キンキンとした高い声で呼びかけられているような気がして面白い。「〜呼ばれることも」と書かれていることから、相手をちゃん付けで呼ぶ習わし以外にもさまざまな業界のルールを受け入れてきたのだろう。
掲出歌には次の二首が続く。
断念の彼方に消えし友の名を十まで数え めいってしまう「自分をだましちゃいけないよ」その一言がもろにこたえてしまう夜だぜ 欧陽菲菲「ラブ・イズ・オーバー」
消えていった友は、同じ業界の人々であろうか、あるいは文芸の道を友に歩んできた人々であろうか。ラジオ局の現場で流れたのであろう欧陽菲菲の歌声に、ふと自分の生き方を振り返ってしまう。「もろにこたえてしまう夜だぜ」と気取ってみせる余裕の裏側には、かなりぎりぎりの精神状態が貼り付いているようにも感じられ、ひりひりとする。
カタカナで苗字を呼ばれる一首を引いたが、次回はひらがなで名を呼ばれる歌をみてみたい――
(☞次回、4月21日(金)「人から見た自分 (12)」へと続く)