だとしても。ごく軽度だとぽつぽつと毀れた家族がはま寿司にいる

小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』(書肆侃侃房)

同じ連作に〈二歳半くらいの知能ですと告ぐ女医はまっすぐ五歳を見やり〉という歌があり、「ごく軽度」というのはおそらくは子どもの障害のことを指すのだろう、という前提で一首を読む。『レテ/移動祝祭日』には魅力的な歌が多くあるが、歌集を開くたびに立ち止まるのはこの歌で、栞文では引かれていないし、ほかで言及されているのもあまり目にしない。「だとしても。」は「(もし知能が二歳半)だとしても。」という省略だろうか。もしそうだとしても、「ごく軽度だと」。「ぽつぽつと」はそのまま読み下せば下の句にかかるし、同時に初句の句点を伴う主体のつぶやきをあらわしてもいると思う。

何かこれまでに発達上の心配があったとして、専門医にかかればそれがじっさい明らかになる。もちろん、目の前の子どもはこれまでの子どもと変わらない。何か診断されることがどんなふうに、どう変わるのか。連作のなかで子どもこと「ハル」はヒメジョオンを持ちハエトリグモのように跳ねる。はま寿司の丸い蓋はすべてUFOであるとはしゃぐ。主体の目は変わらずに、ハルの仕草や行動を興味深く、おだやかに見守っている。案じることもあるかもしれないが、あくまで歌から強い焦りや不安は感じない。この親子の距離感がおそらくは絶妙に作用している。ハルはハルである、ハルの描かれる歌からはその確信というのか、ぶれのなさを感じさせる。

下の句「毀れた家族がはま寿司にいる」はどう読んだらいいだろう。はま寿司でもくら寿司でも100円寿司というのは家族連れが多く、たとえばたくさんの兄弟たち、高齢の両親、赤ちゃん連れ、さまざまな家族がそれぞれボックス席に収まっている。行くたびに思うが100円寿司は忙しい。タブレットで寿司を選ぶことに夢中になって、頼んだそばからあかるい音楽とともに寿司が滑ってきて、はいこれイクラ、ホタテ、マグロ、とどんどん卓に皿が増え、小袋のワサビをいくつも搾り、何種類もの醤油から選び、食べ、追加注文は、飲み物は、ととにかくやることが多くちゃんと会話をする暇がない。他の席でも、目を合わせて会話が弾んでいるというより、めいめいの作業に徹するのはどうやら変わらず、だから会話がなくとも成り立つ外食というのはどんな家族にも好都合であるのかもしれない。どの家族が毀れているのか、いないのか、無言のままに寿司を選び、レーンを滑ってやってきた皿のうえのサーモンは崩れている。寿司と言いながら握られてなどおらず、ただ四角いシャリの上にうすい魚の一切れが乗っている。たとえばどこかのボックスでやにわに子どもが騒げば内心(なんだなんだ)と思いはするかもしれないが、誰がどう、どの家族がどんな事情を抱えているのか、もちろん傍目にはわからない。たまたまはま寿司に居合わせたそれぞれの家族の、たとえば怒鳴り声、スマホばかりいじる子ども、それはちらと覗き見る家のなかのようで、知らないだけでほんとうにはみなどこか「毀れ」ていながら、けれどいまはそれぞれが同じようにはま寿司の作業に没頭している。

ハルの持つ記憶のはじめはなんだろうわたしは冬の狛犬だけど