漁火が遠くに見える夜の海は見えないだけでたくさんの水

藤井柊太『パースペクティブ』2026年

本物の漁火(いさりび)を見たことがない。漁火のイメージは知っていて、夜の海の遠くにイカや魚を誘き寄せるための灯りが並んでいる。画面に並んでいる漁り火の灯りの列はカメラによって切り取られた風景の中の主題的なもので、灯りの手前にある真っ黒な海は夜の空と渾然となって画面内の余白を埋めている。「夜の海は見えないだけで」そこに確かにあって、ただ意識が向いていないだけなのだ。

海の姿を見て「たくさんの水」だと素直に感じ取れる人はきっと海を初めて見た人で、その上で川や海という大きな水面を持った概念を知らずに、ペットボトルの水のような、水が集まった状態を横から見て、立体的に水を見ていないと、海を見て直感的に「たくさんの水」と解釈するのは難しい。

海を見ていながら、海を知るよりももっと前の時間まで時間を巻き戻して、あらためて目の前の景色に触れようとしなければ下の句は出せないと思った。

「漁火が遠くに見える夜の海」と「たくさんの水」を「は」で繋ぐと、真っ暗な夜や灯りといった色彩的なイメージは「水」に包まれて後景化する。透明な水にわずかに香や味付けがされているように、具体的な景色は韻律を介して水の質感の比喩となる。漁り火を含んだ水、と思うと、「たくさんの水」は透明で味がしない概念的な水ではなく、ほろ苦さを持った特別なものに思えてくる。

見えない「だけ」ですぐそこにある。「すでにそこに存在してしまっているもの」を意識する。後少しのところで手が届かない。こういった思いは歌集に通底する意識のような気がする。

どこまでが理想の暮らしの範疇かりんごの皮に貼り付くひかり

公園のどうせ擬木の柵だからおもいきり体重を乗せて伝える

際限なく拡大する理想の暮らしの範疇、現実とのギャップがりんごの薄い皮の表面を光らせる。「どうせ擬木」というときの「どうせ」の行き場のない思いが衝動的に主体の肉体を動かして柵に足をかけさせる。

あとがきには「短歌を作ることは、過去に自分の責任で巻き起こしたさまざまな問題に逡巡し、数多の間違いを重ねてきた私自身に向けて、手を差し伸べることができる唯一の手段」とある。今現在という時間の一時点に至るまでに自分が引き受けてきたあらゆる因果が生まれるよりも前の世界、自分という歴史が起こるよりも前の時間に現在の自分を置きたいという欲求から目を背けない。リアリティを貫通してリアルが直接見えてくる。その迫力に圧倒されてしまう。

ポケットの中の硬貨が存在を主張してくる なか卯に払う

砂浜を歩く速度がまちまちで 一瞬 友達のように見える