ざっくりとパイナップルを割くときに赤子生まれて来ぬかと恐る

松村由利子『鳥女』(2005年)

澁澤龍彦が亡くなったとき、夫人へのインタビューをテレヴィでみた。
自分が決めたことは最後まで守り抜く人だった、と追想する夫人は、例えば、と聞かれて、子供をつくらないという約束、をその例に挙げた。
澁澤の、子供をつくらない約束、は実は有名なエピソードなのだが、そのインタビューをみたのはまだ学生の頃のことで、そこだけが妙に印象に残っている。

好きな相手とむすばれて子供をもうける、そのことに何の疑いをもたない女性もまだいるかも知れないが、産むにせよ、産まないにせよ、それが選択肢として意識されるとき多くの女性は重たいものを抱え込むのだろう。
DINKS、つまり共働きで子供を持たない夫婦、という言葉が流行ったのは、奇しくも澁澤龍彦の亡くなった80年代半ばのことだ。
さまざまな理由から、子供をもたないことが、そんなにめずらしくなくなった今でも、さばさばとした気持ちばかりではいられない時期がきっとあるのだ。

一首は、昔話の桃太郎を念頭においた幻視の歌。
ユーモラスな妄想の歌と読めなくもないが、縦割りにされた嬰児の断面が一瞬目に浮かぶ。
皮が厚くかたいパイナップルは、フルーツナイフでは切り分けることができない。
包丁に体重をかけて、ずばっと割く。あの感覚が一瞬の幻覚にありありとした怖ろしさをあたえている。

もし中に桃太郎のような赤子が入っていたら、真っ二つにしてしまうかも知れない。
主人公が怖れているのは、実はそれだけではない。
恋人との関係が、自分に子供を産ませることになるのではないか。主人公はそのことを望んでいない。というか、ふたりの関係が、それを望むことを怖れているのだ。
連作ではパイナップルは恋人が携えてきたものだとわかるので、その印象は一層はっきりする。
子供を望むことへの怖れが、包丁にかけた体重や、縦割りの嬰児の断面のイメージと一緒に差し出されるところに、一首の凄みがある。
主人公が、子供を産まない理由は、散文的に説明されてはいないが、単に、仕事にうちこみたい、というような理由ではなさそうだ。
歌集にはこんな歌もある。

  胎生の生きものはみな生臭し電車に一人息詰める朝

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