きみが父となる日の暮れの灰色の魚とおもうわがひだりうで

小守有里『裸足のジュピター』(1997年)

「きみ」は誰だろう。夫だろうか。それとも妻のいるこいびとか。
夫なら、出産後の歌となり、「日の暮れの」なんて悠長なことはいっていられないようにおもう。
それに下の句の、みずからの腕が「灰色の魚」であるといううすぐらい身体感覚は、こいびとの妻が子を産んだというほうがしっくりいくような気がする。

「わがひだりうで」は、なぜ<左>の<腕>でなければならないのだろう。
左腕は左の胸から生えて(?)いる。左の胸は心臓。そうすると、左腕が心臓からの突起物のようにおもえた。そんなふうに考えると、左腕はからだのなかでいちばんなまなましく存在する。

なにかと謎が多く読むのがむずかしい歌ではあるが、この歌の魅力はやはり、下の句の「灰色の魚とおもうわがひだりうで」の生臭いような身体感覚だ。
どうしようもなくこころが揺れるとき、身体の内側だけではおさまりきれない感情が湧くとき、みずからをささえるのは、身体である。
身体だけは嘘をつかず自分によりそってくる。
この歌に表現された「わがひだりうで」のうすぐらく生臭い感覚を私はしんじられる。
この身体感覚は、ただひたすら身体が発する声に耳をかたむけて得たものなのだろう。

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