人はみな見えない猿を背負(しよ)つてゐる華氏一〇二度の空に圧(お)されて

林和清『匿名の森』(2006年)

ふだんあまり意識しないが、温度目盛は人間のきめたものさしである。
現在、世界でもっともふつうに使われている摂氏温度目盛はスウェーデンの物理学者セルシウスの考案で、水の融点と沸点の間を百等分している。
華氏温度目盛ははじめて水銀温度計をつくったドイツの物理学者ファーレンハイトが、氷と塩の混合物を0度、人の体温を96度と決めたことに由来し、英米でいまでも使われている。
日本語の摂氏、華氏は、ともに考案者の人名の中国語の音訳から来ている。

華氏を摂氏に変換するには、32度をひいて5をかけ、9でわればよい。
華氏102度は、摂氏でいえば38度をこえる。
気温としては記録的な高温だが、気温というのは風通しのよい日陰の温度のことだから、夏の日盛りの体感温度としては、38度はむしろ一般的な数字といえるかもしれない。
華氏といえば、永田和宏の滞米研究者時代の歌に、
  ようやくに華氏で暑さを感じいるこの頃赤きTシャツを好む
があるが、一首は海外詠ではなく、数字の大さで暑さを強調したかったのと、ふだんとちがう尺度を持ち込むことで、日常的な風景にゆさぶりをかける意識があったのだろう。

一見、SFチックな一首だが、たとえば祇園祭の山鉾巡行の見物の風景などに触発された歌ではないかと読んだ。
ただでさえ暑いのに、巡行の様子を一目見せようと、わが子を肩車している父親の姿。
でも、それはたぶん発想のきっかけであって、猿=肩車の子、というわけではない。
子供を肩車しているわけでもない、自分の肩にも、そしてあなたの肩にも、それぞれにこの世のしがらみが、首枷のようにのしかかっているではないか、という発見の歌と読みたい。

連作の「盂蘭盆会」というタイトルからすると、背景にあるのは、六道参りか、五山送り火か、あるいは単なる墓参りかも知れない。
墓参りだとすると肩車は関係ないが、盆参りはしばしば、ふだん会うことのすくない血縁や旧知と再会をする場となる。
ともすれば、ことさらに重たくて剛毛の猿が、肩にのしかかってきたりする。
そんな墓参りは、できれば午前中のすずしい時間帯にすませてしまいたいものだ。

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