吉野 裕之


忘れてしまうものとして聞く生い立ちに母と別れた夏の日がある

山崎聡子『手のひらの花火』(2013年)

 

ことばがある。〈私〉のためにことばがある。そんな若やかな作品たちを収め、山崎聡子の歌集『手のひらの花火』はある。

 

塩素剤くちに含んですぐに吐く。遊びなれてもすこし怖いね。

ひゅうひゅうと肺から幽(かす)かに音がするフランクフルト売りのおじさん

床板の割れ目に西瓜の種落としおおきくなれよとひそかに願う

うまれなかった妹のよう日付のみ書きさしにした学級日誌

さようならいつかおしっこした花壇さようなら息継ぎをしないクロール

髪の毛と目の色「黒」と書かれいるまでを見ている学生課、なつ

あまやかに噛み砕かれたる芽キャベツのなんてきれいな終末だろう

わたくしが生まれた町よ弟が夜の国道ゆっくりわたる

プランターにアイスの棒を差しているあたりに溜まるぬるきぬるき風

父親がもらった西瓜の一切れをからだに沈めるように食べていた

 

日常には、ぽこっぽこっと穴が開いている。それは誰にも見えるはずなのだけれど、見ないほうがいいと思っている人もいる。穴を覗いてみる。あっ。向こうにいってみたいな。そんな好奇心が、ことばをしなやかにする。ことばが、ものやことの襞にふっと入っていく。ときに甘やかに、ときに残酷に。

甘やかさも残酷さも、実は同じもの。私たちは、そのことを知っている。表情を変えながら──ときに甘やかに、ときに残酷に、若やかな作品たちはある。

 

忘れてしまうものとして聞く生い立ちに母と別れた夏の日がある

 

シンプルな作品だ。7・7・5・7・7。初句が7音の字あまりで、やわらかな韻律。

「忘れてしまうものとして聞く」。私たちは、たくさんのことを聞く。そして、その多くを忘れてしまう。すべてを抱えることはできないから。「忘れてしまうもの」。「こと」ではなく「もの」。〈私〉は、それを「もの」と規定する。それとは「生い立ち」。誰の? おそらく、友の。

「母と別れた夏の日がある」。母が亡くなったのか、生きているのか、それはわからない。「別れた」ということだけがことばになっている。〈私〉は聞いたはずだ。しかし、〈私〉にとって、それはどちらでもいいのだ。なぜなら、「忘れてしまうもの」だから。

シンプルな作品だ。シンプルだからこそ、くっきりと立っている。そう、〈私〉の心のなかに。〈私〉は、友に「母と別れた夏の日がある」ことを忘れない。友の、つまり〈私〉の痛みを忘れない。