吉野 裕之


日の丸はお子様ランチの旗なれば朱色の飯(いい)のいただきに立つ

小池 光『日々の思い出』(1988年)

 

久津晃や山埜井喜美枝を中心とした勉強会で『日々の思い出』を読んだのが、小池光の歌集を読む最初だった。一冊が刊行された直後くらいではなかったかと思う。久津の、あの独特の文字のレジュメが懐かしい。

 

アパートの隣りは越して漬物石ひとつ残しぬたたみの上に

遮断機のあがりて犬も歩きだすなにごともなし春のゆふぐれ

おそろしき速度をもちて蟻ひとつ灼けたる馬頭観音くだる

 

大きな衝撃だった。自分が考えていた短歌というものの枠組みの狭さを教えられ、私は小池の作品に惹かれていった。そう、リアリティの確かさとそのありように。

 

暑のなごりほのかに曳ける石のうへ秋のかなへびは戦(そよ)ぐがにゐる

夕暮るるあめの一日や革靴の量(かさ)のふくるるその中の足

うごき鈍くなりたる母とむきむきに雑煮をくひて言ふこともなし

なまぬるき冷し中華をひとり食ふいま馬のごときわれと思ひて

ホームには大燻(おほいぶ)りせる灰皿のひとつがありてその風の下(しも)

 

一冊には、日常のさまざまな断片が溢れている。ここでは、〈私〉は、いわば視線としてある。精神も肉体も、視線という機能に集約されている。そのことばは、イメージを形づくるためにあるのではなく、具体のもの/ことの質感を生け捕りするためにある。

 

日の丸はお子様ランチの旗なれば朱色の飯(いい)のいただきに立つ

 

子どもの頃、家族でデパートに行くと、お昼は必ずお子様ランチだった。チキンライスの頂上に立てられた日の丸が好きだったし、家ではどうして日の丸が立っていないのか不思議だった。

「日の丸はお子様ランチの旗なれば」。なにげないようで、とても厳しい断定だ。日の丸は、お子様ランチの旗なのだ。「朱色の飯(いい)のいただきに立つ」。だから、朱色の飯のいただきに立っている。「朱色の飯」がいい。主題は「日の丸」。要は「朱色の飯」。

おそらく、「いま・ここ」にお子様ランチはない。しかし、確かに掴んでいる。つまり、具象であり、抽象。抽象であり、具象。2つを往復しながら、視線はリアリティの本質を探っていく。

 

父の死後十年 夜のわが卓を歩みてよぎる黄金蟲あり 『バルサの翼』(1978年)

つつましき花火打たれて照らさるる水のおもてにみづあふれをり

交接の馬曇天に果てるまでさむざむと見て引き返しきぬ

夕暮の水よりあがる人体に翼なければあゆみはじめき 『廃駅』(1982年)

ひつそりと生馬のやうな夕闇がゐたりポストのうしろ覗けば

廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり

 

『日々の思い出』に先行する2冊から引いた。正しく〈私〉がいる。『日々の思い出』における視線としての〈私〉は、こうした〈私〉に支えられている。