三十年経て生々しこの家に充員召集令状を夜に携へき

小島宗二『余響』(1976年)

 

恐ろしい歌である。小島宗二は、小学校高等科を卒業後、半原村役場に書記として勤めている。日本が戦争に没入してゆく時代の兵事係であった。兵員の徴集、戦死者の処遇、賞勲伝達、除隊者の組織化をおこなう係に属し、なかでも召集令状を届ける仕事は辛いものであったという。まだ少年であった。

『小島宗二追悼集』に櫻田稔氏が小島から聞いたという兵事係時代の回想がある。「私の顔を見るや、皆が一様に緊張し顔色をかえた」。村中に小島が「赤紙(召集令状)」を届ける役であることは知られていた。「その家を辞して二、三十歩出ると、背後でわあわと哭く家族の声がした」。説明は要るまい。場面を想像してほしい。最近の私の読書体験では、浅田次郎『終わらざる夏』(集英社文庫)に同じような体験を語る少年がいた。しかし、どうしてこんなデリケートな役を少年にあてがうのであろう。その理不尽が腹立たしい。

小島にとってもつらい記憶だったに違いない。戦後苦労して小学校の教員になり、いかにも頑固そうな生き方を貫いたのもこうした経験と無縁ではないだろう。

この歌も、事実を述べて多くを語ろうとしない。しかし、ある家の前に立つと三十年を経てもなお生々しく記憶がよみがえる。この家に「充員召集令状」を携えて立った日――。

充員とあるから在郷軍人の召集である。予備役、後備役、帰休兵、退役軍人、つまり戦争でなければ郷里で生業についていた人たちである。年齢的にも若くはない人が予想される。それだけに、いっそう辛い経験であったのだろう。半原は山間の小さな土地である。当時と変わらぬ家々がそのまま残っている。召集された人は還って来なかったのではないか。

小島は戦中派世代ながら、戦争にかんする歌はそう多くはない。

 

殴られて飛びし眼鏡をうろうろと拾ひし記憶いまに消えざる   『余響』

虎杖の花を呆然と見てゐたる終戦の日のひとつの記憶

入除隊に関はるを記せしのみにして余白多きわが従軍手帳

葦茂る道歩みつつ自由なりき除隊日の空雲のなかりき      『余映』

その日のみ空襲はなく実ざくらのつや持つ粒に日の及びゐき

持ち帰りし手簿もある年の火に失せて兵たりし日は滅びしに似る 『余滴』

 

それでもこのような歌がある。これ以外にも玉城徹が評したように優れた歌の多く見いだせる歌人である。小島は、師である大橋松平の全歌集の編集に精力を傾けた。小島宗二に縁ある方々による全歌集の刊行を、ぜひとも期待するところである。