かの子等はあをぐもの涯にゆきにけり涯なるくにを日ねもす思ふ

西田 税(1936年)

 この一首を知ったのは、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』(中公文庫)によってである。澤地のこのドキュメンタリーは、二・二六事件に関係した青年将校の妻や女性に焦点をあてた一冊である。事件に連座した男たちを夫とする彼女たちの戦中・戦後は、まさに忍苦の時であった。その女たちの一人、西田はつの聴き書きに、この歌が紹介されている。

西田はつの夫、税(みつぎ)は、北一輝とともに事件の理論的首謀者として、蹶起に加わらなかったにもかかわらず逮捕、そして死刑を告げられた。

78年前の二・二六事件については、もう思い起こす人も少ないだろう。この国が全面戦争に至る軍部ファシズムの台頭への契機であるこの事件も歴史の知識として知るのみであろう。しかし、澤地がこの本の取材をする頃は、まだ妻たちが夫の死の記憶もなまなましく生きていた時代であった。

西田は、事件においてはむずかしい立場にあった。北一輝の霊告や『日本改造法案』が事件の理論的支柱のようなはたらきをしたこともあって、北と青年将校たちを繋ぐ西田も同様に見られていた。西田自身は五・一五事件の折も蹶起に反対し、仲間内から殺されかけたこともあり、武力蜂起には慎重な立場を取っていた。しかし、ひとたび事が起これば、事態を良好に進めるように努めた。結果、北とともに銃殺される。

裁判は、非公開の暗黒裁判である。まず事件の同年(1936年)7月に事件の実行にかかわった25名の青年将校らが銃殺された。北、西田に磯部浅一、村中孝次ら4名の死刑の実施はそれから一年後、翌年8月になる。

西田の歌は、青年将校らの処刑を銃声によって知った時に作られた一首である。弟のように思い改革の同志であった青年将校に「かの子等」と呼びかけ、青雲は獄窓から望む青みを帯びた雲であり、青雲の志をいだく青雲の士をも暗示する。その雲の涯なる国に彼らは逝ってしまった。朝から夕べまで彼らがいる死後の国を思い、思い獄中に過ごしている。

西田は処刑の前々日に「残れる紙片に書きつけ贈る」として遺詠を残す。

 

限りある命たむけて人の世の幸を祈らむ吾がこゝろかも

君と吾と身は二つなりしかれども魂は一つのものにぞありける

吾妹子よ涙払ひてゆけよかし君が心に吾はすむものを

 

妻への歌である。残された妻の心にどう響いただろうか。

桶谷秀昭『昭和精神史』(文春文庫)にも、西田税のこの一首が引かれ、また戦前における二・二六事件を素材にした文芸作品として斎藤史の『魚歌』が取り上げられている。斎藤史の歌集はもとより、桶谷のこの大冊(続も含め)も昭和の短歌を考える上の必読文献である。

今年の二月の東京は二度の大雪に埋もれた。78年前も二度も雪に降られている。二度と暴力が美しく思える時代が来ないことを祈るばかりである。